見出し画像

白山駅 梅雨と初秋が似合う坂の街 | 河島えみ

この街に引っ越した3つの条件

この街に引っ越した頃は暗黒時代だった。あまりにも恥ずかしくて、人にちゃんと話したことがない。2017年の春、修士論文を書き終えられないまま就職(社会人大学院生だったから、転職?)をしてしまったせいで、平日は語学系の出版社勤務、土日は大学図書館に缶詰というなんともハードな生活をこの街でスタートさせた。もう、間に合わん、アー!また留年だ!と差し迫ると、有給を前借りして平日もせっせと図書館に通っていたので、今考えれば本当に迷惑な社員だっただろうな...と、とても反省している。でも、とても理解のある編集部でよかった。もう辞めてしまったけれど。

なぜ白山に住むことにしたか。それは3つの条件を満たしていたから。
その3つとは、夜1人で歩ける、徒歩圏内に本屋がある、会社に自転車で行ける、というすごく単純なもの。物件を探す際には、卒業しそびれた大学院の半年分の学費を捻出するために、2口コンロ以外の条件はほぼ全て譲り、築年数の古い家を選んだ。古い家に住んでも、新しい家に住んでも、家具と本がそろえばそんなに変わらないだろうという感覚を今ももっている。

白山は梅雨と初秋が似合う坂の街

ここ、白山は坂の街だと地元の人が呼ぶ。南北に走るのは薬師坂。この坂の北側の交差路にポツンと白い壁の眼鏡屋がある。その店のすぐ先に立って段々と低くなっていく薬師坂を見下ろすのは気持ちがよい。余裕のあるときには立ち止まって坂の上でスーッと深呼吸をする。

この街のおすすめは梅雨と初秋だ。梅雨には、遠方から紫陽花を目当てに人が押し寄せる。雨など気にせず着物を纏った人が街を歩き、下駄がカランコロンと音をたてる。白山神社のあじさいまつりは、お隣の根津神社のつつじ祭りと並んで文京区の目玉の行事である。

白山_01

2019年の白山神社あじさいまつり、2020年はコロナ禍で中止に

初秋もよい。樹木の山吹色の葉が陽に透け、まだ散る気配を見せない薄緑色の葉と混ざりあっているのが綺麗だ。薬師坂の途中の浄雲院心光寺には、区が保護樹林に指定している巨大な銀杏があり、黄色に染まった葉が散る様子を下から見上げるとため息が出る。仕事でワーッとなったら、散歩しに行く。

白山_02

初秋の写真がないので、これは晩秋。浄雲院心光寺の銀杏と紅葉のコントラスト

セザンヌの絵画に喩えられた坂

実は、明治の頃、白山には巣鴨から指ヶ谷に抜ける路面電車が走っていたらしい。ある女性作家が薬師坂を眺めて「梢を見せている樹木の並びがセザンヌの絵画のようだ」と書き記している。それを読んだ私は目を白黒させた。

いやいや、セザンヌは言い過ぎだろう。セザンヌは。サント=ヴィクトワール山に喩えるにしては、ここは山らしさに欠ける。でも情景を同時代の画家になぞらえるのはセンスがよい。面白いから薬師坂のことをセザンヌ坂としておこうか。

このセザンヌ坂はなんといっても朝が忙しい。電動モーター付きの自転車にジタバタする子どもを乗せる親が、通学途中の学生の間を器用にすり抜ける。ここはどうやら子育て世代も住めるような街らしい。私も彼らに見習い、電動モーター付きの黒のミニベロ自転車を購入した。移動範囲が広がると隣町にもお出かけできて、生活が賑やかになる。

白山_03

好きなおにぎりを選べて500円、写真は山椒サーモンマヨ

なかでも根津のおにぎりやさん「利さく」に行けるようになったのは嬉しかった。ツヤツヤしたコシヒカリで作ってくれる山椒サーモンマヨおにぎり。アー!湯気までおいしい。帰り道の団子坂だって、私のミニベロだとスイスイ登れて向かい風もつらくない。そして、仕事で疲れた夜には、千駄木の銭湯「ふくの湯」に向かう。鼻をつまんで全身を湯船に沈める。嫌なことを忘れるには最適な場所だ。お風呂上がりのコーヒー牛乳を飲み干すと、死んでいた心がジンワリと息を吹きかえす。

徒歩圏内にいくつも本屋があるのが好き

それから、なんといっても、この街には好きな本屋がある。今は建て替え工事中だが文芸誌を揃えている南天堂書店。ここには話題になった雑誌を買いに行く。また、白山下の京華通りの誠文堂書店も好き。ここに寄ると、いつも店番の人が忙しそうにAmazonの出荷準備をしている。いつも90年代の懐メロが流れているのがよい。店主の好みなのだろう。ここの美術書コーナーの品揃えはいつもチェックしている。

白山_04

写真展があったある日のplateau books

さらに、京華通りには週末にのみオープンするplateau booksがある。ここはちょっとお茶をするのにちょうどよい。おすすめはバラ甜茶。この本屋さんは建築士の人が経営されているので建築関連の選書が優れている。詩集や児童書もあるが、お客さんがよく買うのは、料理本や食べ歩き本らしい。

私はここでムーミンの1巻を買った。ほのぼの児童文学だと舐めていたら、みんなで困難を乗り越え天文台に彗星を見に行く話で、指輪物語さながらの旅だった。あまりにもよくて部屋の隅で泣いてしまった。ついでにいうと、写真好きの私にはありがたく、この本屋には鈴木理作、川内倫子、鬼海弘雄といった写真家の本が置いてあるのもよい。たまに若手作家の写真展があるのも通うきっかけになっている。


わざわざ新宿や渋谷に出かけなくても、お気に入りの本屋で文庫を買って小石川植物園のベンチで読書をすれば、意外と記憶に残る1日になる。そんな街が大好きだよとここに書き残しておきたい。

河島えみ (@kw4m8m)
視覚芸術をみるのが好きな会社員。翻訳や編集もしている。感受性が子ども的になったり、老人的になったりと忙しいが、基本的にマイペースである。写真に関する古い文章を英日翻訳するプロジェクト「STRATA」を少しずつ進めている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?