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性別のボーダーラインが薄いと、女の子も男の子も、どちらでもない自分も楽しめる

私は物心ついた時からスカートやフリルがついた「The 女の子」なお洋服が苦手で、母が弟用に買ってきた服を横取りして着ていました。小学生の時のお気に入りはスポーツメーカーの半袖Tシャツ。いかにも女の子な自分の名前も気に入らず、当時好きだったアニメのキャラクター「シゲル」という名前を友達に呼ばせていた時期もありました。みんな『???』ってなってたけどちゃんと呼んでくれて、でもそれも気恥ずかしくて途中でやめてしまいました。

いつの頃からか家の中では一人称が「俺」になり、自分は長男だと思って生きるようになりました(本当は2人姉弟の長女です)。長男だからしっかりしなきゃ!心配するな放っておいても生きていける!弱みは絶対見せない!笑顔を晒すのも無防備に感じ、家ではずっと不機嫌で横柄な態度をとっていました。私は私なりの考えでそうしていたのですが、こんな話をすると母は「長男として育てた覚えはないけど?」と言います。その通り、私はなぜか自主的にそういった生き方を選んでいました。普段はTPOに合わせた一人称を使いますが、今でも実家に帰ると一人称は俺のままです。

朝起きると、毎日自分が違う性別みたいに感じていました。今日は女の子、今日は男の子…だから服のジャンルも絞れないし、髪もなかなか伸ばせない(自分の中の男の子が定期的に刈り上げしようぜ!と言ってくる)。そう、女の子っぽく生きたいと思う時もあるんです。でもその度に自分の中の男の子が言います「うげぇ」って。

初恋は小学1年生の時、サッカーが上手で子供好きの男の子のことを好きになり、小学校6年間ずっと好きでした。バレンタインデーにドキドキしながらチョコを渡しに行ったり、普通に女の子として男の子に恋心を抱いていました。

中学2年の時に初めて女の子を好きになり、勢いで迫ると「怖い」と言われたので女の子を好きという気持ちは封印することにしました。夜のバスの中で無理矢理押し倒すというなんとも野蛮なやり方だったので普通に怖かったと思います(ごめんね)。なんとも自分勝手な中学生時代でした。頭が冷えてからは、無理に告白して関係が崩れるくらいなら、一生付き合える友達の方がいいなと素直に思いました。

高校生になって初めてちゃんとした彼氏ができて、「あーやっぱり私は男の子が好きなんだ」と納得していたのですが、一方で気になる女の子もいました。普通の友達の関係でどこまで好意を抱くものなのか人と比べようがないからわからないけれど、「あの娘と恋仲になれる男の子が羨ましいな」ってくらいトキメく女の子はいました。女子更衣室で下着姿で戯れ合う女の子たちを見ては、ここはなんて天国なんだと思ったものです。

大学に進学し、初めて男女問わず愛せる男の子に出会いました。当時彼には好きな女の子がいて、私も付き合っている人がいたので友達以上の関係にはなりませんでした。でも彼の話はとても興味深く、やっと似た感性の人に出会えたことが嬉しかったです。私は、好きになれば性別はどっちでもいいなと思っていて、彼もなんとなくそんな感じの性別の境目が薄い人でした。類は友を呼ぶのか、大学時代はそういった性別のボーダラインが薄い友人が多かったように思います。交友関係が広いわけではなかったですが、私と親しくなる人の半分くらいはそういう人たちでした。

「今ここで、ノアとどうかなっても私は構わないよ」

ある日、大学の飲み会で終電を逃した私とクラスメイトの女の子は教授の部屋に泊めてもらうことになりました。教授が帰った後、私たちは二人きりでソファベッドに寝転がりながら気だるい感じで色んなことを話しました。彼女には付き合っている人がいいて、私にも恋人がいて、お互い酔っていて心地よく親密で、実は女の子も愛せるふたりで…

「〇〇くんと週何回くらいするの?」

「2日に1回かな、それでも少ない、毎日したい」

「そう?十分羨ましいけどなー」

「やらない夜って勿体無いよ」

半ば酩酊気味の彼女の口から放たれた言葉が脳に染みました。結局私は窓がうっすら明るくなるまで眠れず、意識のなくなった彼女の横顔をただただぼんやりと眺めていました。

海外に留学していた時、クラブに友人数人と遊びに行ったことがありました。現地の友達が予約してくれたコースがレッドブルとウォッカ飲み放題というカオスなメニューで(それ以外を頼むと水でもお金がかかる)仕方がないので私たちはウォッカを飲んで踊ってはレッドブルで復活するという昇天サイクルを楽しみました。

流石にくたびれてトイレ前のソファに座っていると、ブロンドの女の子が近づいてきて私の隣に座り、少しすると肩に頭を載せて私の手をそっと握りました。急な展開に驚きすぎて一気にお酒が抜けて脳が覚醒する感覚、恍惚感…でもどうしたらいいかわからず、しばらく2人で手を繋いでボーッとしていました。今しかないと思いつつも、でも何をどうしたらいいのかわからず、ただ頭の中でこの後の展開が何パターンも高速シュミレーションされては消えていく…しばらくすると私の友人が探しに来てくれて驚いた顔で私の手をとり、ブロンドの女の子とはそれきりになってしまいました。人生で一番ロマンチックでキラキラした夜でした。

そして社会人になり、ひょんなことから友達のおっぱいを揉ませてもらえる機会を得ました。女の子数人でラブホ女子会した後、寝る間際になんとなくそんな流れになり「別に触ってもいいよ」というので1人の女の子の胸をみんなで触らせてもらいました。意外だったのは、特に何も感じなかったこと。別にムラムラもしないし、ただ柔らかくて心地よいものを触っている…それだけでした。この経験から、私は肉欲の対象として女の子を欲しているわけではないんだなということがわかりました。

そして27歳になり、私はひーくん(男)と結婚しました。ひーくんは見た目ゴリゴリの男の子ですが、私から見れば中身は半分くらい女の子です。だから男性っぽく尖っている私も受け止めてくれるし、奥にしまいこんでいる女性的な欲求も滑らかに満たしてくれる。男らしさを求める彼にこういう話をすると嫌な顔をされますが、身体的特徴以外の部分での男性性や女性性というのははっきりと分けることはできないと感じます。人間はどちらの側面も持っていて、その割合は流動的で、混ざってニュートラルになっている人もいる。私の場合とても複雑で、ひーくんの前で女の子でいたい時もあれば、自分も男の子になって男の子として接したい時もある。だからBLの漫画とかとても共感します。ひーくんにBLごっこしようって提案しても絶対却下されてしまうけれど…(前世では男の子同士で出逢ってたんじゃないかなー)

生き物の中には、状況に応じて雌雄どちらにもなり分けることのできるモノもいるようです。最初に知った時は驚いたけれど、でもそれってつまりはそういうことです。人だけではなく他の生き物だって、雌雄の区別はあっても、きっと心の中にはどっちの成分も入っているんだと思います。人間は生き残るために雌雄が分かれた生物であるというだけで、そうでない生き物もいる。それはなんとなく「あんたはあんたのままでいいんだよ」って言ってもらってるような気持ちになります。

私は「ドラゴンタトゥーの女」という映画(原作は小説)が好きなのですが、そこに出てくる主人公のリスベット・サランデルは私の理想です。可愛くてかっこよくて、自分の好きなこと嫌いなことに忠実で…性別の垣根をひらりと飛び越えて自分仕様で生きていく。私もあんな風に生きたいです。

今でも自分って何なのかよくわからないけれど、でもだからこそ腹の底から湧き上がる感情に正直に生きたいと思います。誰かの決めた分類やレッテルは、別に気にしなくていいんじゃないかな。もうすでに、スタンダードが変わってきている気もするし。

自分に正直に生きるって案外難しいですが、でもその時一瞬一瞬の気持ちを大切にしたいです。あの頃悩んでいた自分に

「女の子の日も男の子の日もあっていいじゃない。どっちも楽しめてお得だよ!」

そう言ってあげたいな。

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