見出し画像

夫に惚れ直すきっかけをくれた大家さんの無茶振り

それはちょうど七夕の日の夕方に起きた。
15 時を過ぎたころ、急に外が暗くなり始めたので洗濯物を取り込もうと外へ出ると、家の中からかすかに携帯の着信音が聞こえた。
慌てて音の出所を探して走る…しかし携帯電話を見つけた瞬間に呼び鈴は止まった。画面には、この家の管理会社の名前が映し出されている。
多分、この前頼んだ屋根の修理の件についてだろう。日取りが決まったのなら早く知りたいと思いかけ直すと、担当さんが出た。

「折り返しありがとうございます。先日の屋根の修理の件なのですが…実は修理代が200万ほどかかるようで」

「…200万ですか…」

「大家さんに確認したところ、修理費用を出せないので修理できないと言われまして…。住人に被害が及ぶようであれば退去頂くかこの家を購入してリフォーム頂くことになるのですがどうされますか?」

質問の意味がわからなくて、私は一瞬フリーズした。退去?購入?耳慣れた言葉なのにまるで現実味がない。この人は一体なんの話をしているのだろう。

「それは…いますぐ退去しろということですか?」

「今すぐにではありませんが、屋根業者さん曰く今後いつどうなるかわからないということでして。急なことですから今日明日にお返事を頂く必要はないので、ご主人と相談いただけますか?」

そう言い残すと電話は切れた。
私はいつものホーム画面に戻った携帯電話を見つめながら、今言われたことを頭の中で反芻した。そんなつもりで屋根の修理を頼んだんじゃなかったのに…と少しずれたような後悔が押し寄せてくる。遠くの方で低く唸るような雷鳴が聞こえ、洗濯物のことを思い出し、また慌てて外へ出た。

管理会社に屋根の修理を相談したのは、お隣さんから指摘を受けたことがきっかけだった。この賃貸の一軒家は山を削って建てられており、お隣さんの方が少しだけ高い位置に家がある。その窓からうちの家の屋根が良く見えるらしく、瓦にヒビが入ってその破片がカーポートに落ちてきているから危ないよと教えてくれた。

「どうしてかわからないんだけどね、こっち側の屋根だけやけに脆いみたいだよ。前に住んでいたおばあさんの時も、屋根が剥がれたってので修理をして結構お金がかかったって言ってたから。」

「もしかしてお隣にも瓦飛んできてますか?」

「いやいや、うちまでは飛んできてないけどね。でも、あなたたちが費用を出す必要はないんだから、一度管理会社に相談してみたら?」

お隣のおじいさんは優しく教えてくれた。確かに玄関や駐車場付近にオレンジ色の植木鉢の破片のようなものがよく落ちていて気にはなっていたのだけれど、まさか屋根瓦だったとは。お隣さんが親切な人でよかったと、その日すぐに管理会社に相談し、先週業者が調査に来たところだった。

退去か、購入か。
過激な2つの選択肢が頭の中をグルグルと回り、何をするにも私の頭を支配した。今すぐにでも旦那さんに電話して相談したかったが、仕事中に余計な心配を増やすのも精神衛生上良くないと思ってやめた。こんな日に限って私の仕事も長丁場で、20時半を過ぎた頃ようやく一息つくことができた。

「あのさ、今日どえらいことがあってさ」

「なになに?」

「屋根の修理頼んでたやん?あれ、200万かかるらしくて大家さんが修理できないって。それで、退去するか家買って直すかどっちか選べって言われた」

「は?何それ、おかしいやろ。」

「こんなことになるんやったら屋根のことなんて言わなきゃよかったなぁ。言わなかったらずっと住めたのに…いま思い返すとさ、2年前に引っ越してきた時から庭に瓦の破片落ちてたやん?後数年住んだってどうってことなかったと思う…」

「いやいや、でも瓦が落ちてきて怪我したり雨漏りしたりしたら大変やし。だいたい屋根の修理は大家さんの義務やろ?俺らの問題じゃないよ。」

「そうやけど、でも退去か買うかしかないって言われたから…。ちなみに、購入してリフォームしても、35 年ローンにしたら月々の支払いは今の家賃の6割くらいにはなるって言ってた。それはちょっといいよね」

「へぇ。でも正直、俺はここに一生住むつもりは無いよ。確かにいい家やし気に入ってるし、後10年くらいは住む予定やったけど。でもいつかはもっと田舎に行きたいからなぁ。」

「じゃぁ…買うって言う選択肢はない?」

「無いなぁ。」

買う気は無いという夫の気持ちが聞けたところで、私の頭は随分と冴えた。脳内では電気信号がせわしなく飛び交い、解決策を探していた。その時、ふと知り合いの建築家さんと不動産会社の方の顔が浮かんだ。彼らに相談したら、何か良いアドバイスがもらえるかもしれない。そう言えば、以前知り合いから自治体がやっている無料の法律相談を勧められたこともあった。試しに『法律相談 無料』で検索してみると法テラスという制度がヒットした。一定の収入以下の人は、無料で相談できるようだ。来週ここに電話しようと決めてその日は眠りについた。

翌日、家の賃貸契約書を引っ張り出してきて全ての項目を目を皿にして読み返した。よくわからない部分もあったが、2つのことが読み取れた。

・建物の基礎構造部分の修繕義務は大家さんにあること
・大家さんが借主に退去を命じる場合6ヶ月前でないといけないこと

この2つからわかることは、屋根の修繕ができないという理由で即退去を命じられた場合、何かしらの交渉ができるのではないかということだった。家を購入する選択肢がない以上、退去までの日数をできるだけ稼いで退去費用を請求するしかない。ネットで同じような境遇の人がいないか調べてみると、理由は違えど大家さんからいきなり退去を命じられる経験をしている人は意外と多かった。大家さんがその賃貸物件を別の用途で利用する場合や老朽化による修繕が主な理由のようだが、うちの場合この老朽化の修繕に入るのだろうか。その日はたまたまうちの両親が遊びに来る日だったので、昨日の出来事を全て話した。

「それってさ、あんたらを追い出して早くこの家売りに出したいんじゃないの?雨漏りする前に売りに出しちゃわないと面倒なことになるし」

「だから急に家を買わないかって聞かれたのか…」

「そういうことだと思うよ。」

「じゃぁ、もし修理が必要とわかった状態でこのまま住み続けて雨漏りしたら、住んでるうちらの責任になるってこと?」

「それはわからないけど、そうなっても責任は取りませんって言うのをはっきり言うしかないんじゃない?書面にでも残して。」

母はわらび餅を食べながら神妙そうな顔でそう言った。これはいよいよこちらも知識武装をする必要が出てきた。このまま丸腰で管理会社とやりあったら、負けるのは目に見えていた。

「来週、法テラスに電話してみるわ。無料か、30分5000円くらいで相談できるみたいだから。」

「お母さんも一緒に行こうか?」

「いやいや、別にいいよ。もう子供じゃないから1人で行ける。」

「こんな暑い中歩いていくの?車はクーラーきいて快適だと思うけど」

「…お願いします。」

翌週法テラスに電話するとあっさりと予約が取れた。都心部まで出ないといけないのかと思ったが、市民会館のような場所でも受けられると聞いてホッとした。

相談に行く前日、「明日弁護士さんと話してくると」夫に告げると意外にもあっさり「そっか」というそっけない反応が帰ってきた。なんとなく寂しい気持ちになる。私的には母より彼についてきてほしかった。それなりに緊張していることも知ってほしかったし、何より退去か購入かを迫られた一家のピンチであることをもっと自覚を持ってほしかった。その後も何度か家の話題を振ってみたけれど、思ったような反応は得られなかった。ゲーム機から顔を上げない夫に根負けした私は、この件は自分で解決しようと心に決めた。

相談当日、私は母と一緒に地元の文化会館を訪れた。受付で年収などの必要な情報を記入し、順番が来るまで廊下で待った。廊下の奥からは、別室で体操をする元気なおばさまたちの声が聞こえてくる。

「あの先生体柔らかいなぁ」

母にそう言われて長い廊下の先を見ると、開け放たれたドアから体操の指導をする50代くらいの女性が開脚しているのが見えた。こちらにお尻を向けたあられもない格好で、ストレッチの秒数をカウントしている。

「こんな角度から見られてるなんて先生も思ってないだろね」

実は私は弁護士さんと関わるのはこれが初めてではなかった。高校の時に模擬裁判部という部活に入っていて、私は弁護側だったので現役の弁護士さんから直々に指導を受けたことがある。その時は将来自分が弁護士さんに相談しに行くような出来事に見舞われるとは思いもしなかった。私にとっては被告人を免罪から守る唯一の味方みたいな印象だった。

ドアが開いて私たちの前の相談者が出てくる。私はとっさに目を伏せた。なぜだかわからないけれど、あまり顔を見てはいけない気がした。その後私たちもすぐに呼ばれて広い会議室のような場所に通された。

「こんにちは。〇〇弁護士会の△△です。今日はどういったご相談ですか」

相談に乗ってくれた弁護士さんは背が高く、窮屈そうにパイプ椅子に座っていた。何かブツブツ呟きながら私の持ってきた資料に目を通している。

「賃貸の一軒家に暮らしています。屋根の修理を管理会社に相談したら、修理はできないから退去するか家を買ってリフォームするか選べと言われまして…」

「どうして修理できないんですか」

「わかりません。ただ、修理に200万かかるそうで…多分お金の問題だと思います」

「結構しますね(笑)」

弁護士さんが笑ったので少しホッとする。

「しかし、それは大家さんの義務違反です。屋根のような建物の基礎構造部分の修繕は大家さんの義務ですから。契約書にも書いています」

「では、どうしたら良いでしょうか。退去か家を買うか聞かれていて、結論を電話しないといけないんですけど…」

「だから、そもそもその選択肢がおかしいんです」

弁護士さんの語気が強まった。私は話の筋が見えなくて、弁護士さんの機嫌を損なわないように言葉を選ぶので必死だった。結局私はどうしたらいいんだろう。

「いいですか。これは大家さんの義務違反です。あなたは退去する必要もないし、家を買って修理する必要もありません。住みたければこのままずっと住むことができる。修繕の義務は大家さんにあるんですから」

「じゃぁ、退去か購入かの選択肢がそもそもおかしいということですか」

「そういうことです。」

「なるほど」

「それにしてもひどいですね。修理できないから退去か購入って、そんな話あまり聞いたことがないです。」

「…そうですか。では、どうすれば…」

「修理してほしいと言い続けるしかないです。ちなみにこちらが修繕費を立て替えて、後で大家さんに請求することもできます。ただし、それをする場合はちゃんと弁護士をつけてやってくださいね。それから、この話を切り出す時は脅しにならないように注意してください。っと、おや、大家さんは中国の方ですか?」

「台湾人だそうです。私も会ったことないんですけど」

「住所もあっちの住所ですね。ということは国際的な問題になりますね。まぁ、訴訟になった場合資料くらいすぐに作れますが…」

と、そこへ母が口を開いた

「その、修理の必要性を知った上で住み続けて今後雨漏りが起きた場合、責任は娘夫婦が取る必要があるんですか?」

「その必要はありません。だって、修繕の義務は大家さんにあるんですから。完全に義務違反ですよ。こっちに責任は一切ありません。」

それを聞いては母少しホッとしたようだった。私たちには一切の否もないのだ。最初は無知でうろたえてしまったけれど、どうやらとてもシンプルな話だったらしい。

「とにかく、契約違反は大家さんの方なので強気で修理のお願いをし続けてください。出ていく必要も家を買う必要もありません。こんな家買ったら後々苦労しそうです。」

「私が言ったら舐められちゃうと思うので、主人に交渉してもらってもいいですか?」

「それは構いません。もうずいぶん舐められているようですしね。ただ、脅しにならないように注意してください。」

「ありがとうございます」

「ひとつ気になるのは、最初にお隣さんから屋根を指摘されたと言うことですが、どういう意図だったんですかねぇ。」

「屋根瓦が落ちてきて当たったら危ない的なことを言われました。」

「お隣さんの家まで瓦が飛んでいってるんですか?」

「いえ、それは飛んできてはないと言っていました。教えてくれて親切な人だなって思ったんですけど…」

「確かに親切心もあると思いますが、それだけじゃないと思いますよ。だって嫌でしょ?隣の家の屋根が崩れかけてたら。怖いじゃないですか。」

「まぁ、確かに。」

「親切心半分、自分の家に飛んできた時のことを考えていってきたんだと思いますよ。」

そう言われて、人を疑うことを知らない自分の頭に嫌気がさした。私は根っから性善説に浸かっていて、人を疑うことを知らない。もちろんお隣さんは親切な方で間違いはないのだが、その裏に別の心配事があったとは気がつかなかった。

「とにかく、強気で交渉してください。あちらの義務違反ですから。それから、6ヶ月前の告知で大家さん側から退去を命じられるともありますが、これは『正当な理由』がある場合のみ有効です。基本的にはあなたたちが住みたければこれからも住み続けることができます。」

そんな話をしているうちにあっという間に30分が過ぎた。最後に弁護士さんの名刺を受け取り、部屋を出る。今まで見たどの名刺よりも殺風景で厳格な名刺だった。

冷房の効いた部屋から一歩外に出ると、暑いはずなのにふんわりと外気に抱きとめられたような気持ちになる。母も安心したようで、そのあと2人でスーパーに寄って買い物をして帰った。

帰宅した後、私は夫に説明するために今日の話を広告の裏にまとめた。最初は1人で解決しようと思っていたけれど、人に強く物を言うのがあまり得意ではないのでここは夫に任せたいと思った。彼は普段温厚だが、怒ると青白い殺気を出して周りの空気を凍らせる。疲れて帰ってきてこんな話を聞くのも嫌かもしれないけれど、できれば記憶の新しいうちに今日説明してしまいたかった。

ほぼいつも通りの時間に帰宅した夫はほぼいつも通りに疲れていた。暑かった暑かったと言いながら作業服を脱いで二階へ着替えを取りに行く。私はすぐにビールとコップの準備をして、貰い物のお菓子を机に出した。夫の帰宅を喜ぶ猫がニャーニャーと足にまとわりつくのをなだめながら、私は何食わぬ顔で夕飯の準備をした。

シャワーを浴びて美味しそうにビールを飲みながら菓子をつまむ夫に、今日の現場はどうだったか聞きながら私は鯛に塩を振った。今日の夕飯は夫の好きなのアクアパッツァだ。なんとなく鯛が安かったから買ったつもりが、夫の機嫌をとるためのメニューに見えてきて我ながら策士だなぁと思う。

「それで、法律相談はどうだったの?」

夫から聞かれてドキッとした。気にしてくれていたことへの喜びと、せっかくの良い気分を、気の重い話で台無しにしたくない気持ちがないまぜになった。

「それがね、やっぱり義務違反は大家さんの方だって。退去する必要も家を買う必要もないって言われた。強気で修理のお願いをするしかないって。もしそれでもやってもらえなかったら、弁護士をつけてこっちで修繕費を立て替えて大家さんに請求することもできるって。あ、これは言い方によっては脅しになるみたいだから気をつけないといけないんだけど…」

「なるほどね。俺が思ってたのと大体一緒ってことか」

「そうそう、法律は知らなかったけど、でも弁護士さんも同じようなリアクションしてたよ」

「じゃぁ、今電話するわ」

「え?」

「今から管理会社に電話する。法律で裏取れたんなら自信持って電話できるでしょ?電話番号教えて。」

「いや、でもビール飲んでるやん」

「飲んでる方がうまくしゃべれるやろ?」

「確かに饒舌にはなるけど…じゃぁ、これ使って」

私はさっき裏紙にまとめていた交渉の手順メモを夫に渡した。夫はサンキューと言いながらビールを口に運び、紙を眺める。

「これ、俺のためにまとめてくれたん?」

「そう。忘れないうちにメモしとこうと思って」

「わかりやすいなぁ。助かるわ」

そう言うと彼は携帯を手に取り管理会社の担当さんの番号を押した。1コール、2コール、3コール…なかなか出ない、もしかしたら今日はもう営業終了かもしれない。そう思ってアクアパッツァのフライパンに火をつけようとしたところで電話が繋がった。

その後はもう鮮やかとしか言いようがなかった。夫は落ち着いて礼儀正しく、管理会社の担当さんを理詰めにした。語調が優しいので脅しには聞こえないが、でもこの手の話し方をされると一番嫌だなぁと感じる類の話法だった。なぜか昔のバイト先の上司の顔が浮かんだ。仕事はできる人だったが、怒るとこの理詰めモードに入るので少し苦手だった。でも、味方につけるとこんなにも心強いとは。

「大家さんにお伝えください」そう言って穏やかに電話を切った夫は、にっこり笑って私にメモを返した。

「とりあえずこれでやることはやったやろ。メモありがとう、助かったわ」

「ううん、こちらこそありがとう。私が言っても舐められるから電話してもらえて助かった。なんと言うか…交渉うまいね」

「惚れ直した?」

「まさか」

私はフライパンに点火しながら答える。普段口下手に見える夫の頼り甲斐のある一面を見て、まぁ、ちょっと見直した。

気の小さい私は、その後ご飯を食べる時も管理会社から電話がかかってくるんじゃないかと心配したが、そんなことはなかった。

今回のような2つの理不尽な選択肢を出された場合、理不尽でも選択肢は2つしかないからそこから選ばないといけないと思ってしまいがちだ。でもその選択肢自体が間違っている可能性があるということを私は学んだ。知識不足のために、今後の生活に対して必要以上恐怖と心配をしてしまった自分を恥じながらも、良い経験だったと感じる。

「今回はいい対応だったと思うよ。専門家に相談したのはよかった」

鯛を口に運びながら夫は言った。

「そうだね、知り合いに相談してもよかったけどやっぱり法律の専門家に聞けたのはよかったね。自信持って交渉できたし」

「うん、ありがとうな」

そう言って嬉しそうに白米を口に運ぶ彼を見て、私はまた一層彼を好きになった。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?