兼業小説家志望「悪しからず」① #創作大賞2024#ミステリー小説部門
全3話
亀井歩は目に映る映像をぼんやり見つめていた。焦点が合わないのは寝不足のせいなのか、それとも飲み過ぎか、もうそんな区別はとうにつかなくなっていた。
眼裏に映る薄ぼんやりとした天井の木目模様は創造の端緒だと日ごろから思っている。
道理で亀井の書くものには渦巻や木目がよく登場する。それは心の有り様とリンクして、遠い昔からはるか未来まで亀井を連れ回す。毎晩、そのスマホの渦の中に溺れていた。
ベッドから重い上半身をやっとの思いで起こして時計を見た。
「ヤバい」
思わず口から漏れるが、これももう習慣だ。
ダッシュで洗面台に向かい、顔を洗った勢いで髪を掻き上げ、歯ブラシを口に突っ込む。
小刻みに手を震わせながら見る鏡が一日に唯一確認する己の姿だった。
「浮腫んでんぞ、おまえ」
昨日脱いだままのスーツに速攻で包まって、玄関を飛び出すまで10分とかからない。
会社ではシュッとした顔を心がける。シュッとした気持ちはシュッとした外見を作り上げると信じている。
亀井の妄想の指が恵理子さんのつややかな髪に手櫛を通す。「綺麗な髪だね」と言ってみたりする。
しかし零れる眼差しが亀井に向けられることは滅多にない。意志の強い鼻筋から胸元へと視線をやる。制服がよく似合っている。彼女のお陰で亀井は会社に来られる。そんな気さえしていた。
そんな僅かな楽しみさえ、お局の目に留まらぬうちに視線を他所に流さねばならない。
同期の吉井が課長のデスクの前で、ヘコヘコ頭を下げている。
「なにかやらかしたか?あいつ」と誰かが言った。
振り向いた吉井の顔に笑みが見え、右手で軽いガッツポーズ。
「おい、何があった」
吉井はデスクから満面の笑みを亀井に向けた。
「何なんだよ」
「昇進の打診」
「え!係長か」
吉井は笑みを湛えたまま軽く頷いてみせた。同期の吉井に軽く追い抜かれた。
「今日、祝杯、どうだ?」
「わりぃ。先約があるんだ」
先約。今告げられた昇進に?それとも元々約束があったのか。
「いつでもいいよ、祝杯は。同期の出世頭を祝わせてくれ」
「お前とは正式に上司と部下になってからな。まだどっちに転ぶかわからないし」
「打診があったらそれは確定って意味だ」
「正式に辞令もらったら」
「ああ、わかった。待ってるよ」
ヤツには彼女がいる。しかしそれを告げなきゃならない謂れはない。
吉井はライバルだったのか、と亀井は入社時の時を思い起こした。「楽しくやろうや」とヤツは言った。
「楽しくやってるのはおまえだけだったか」ヤツは仕事ができる。そうは思っていたが、こうもあからさまに差を見せつけられると「忸怩たる思い」というやつが湧いてこないでもなかった。
ヤツはライバルなのか?亀井の胸に残渣のようなものが残った。
何も手がつかずに迎えた昼。
社食に並んだ列から亀井の前の二人が脱落した。そして目の前に現れたのは恵理子さんの天使と見まごう髪だった。亀井は嗅覚に能力のすべてを注ぎ込む。しかし無情にも食堂の匂いにかき消され、彼女の髪の一片の匂い分子をもキャッチすることができなかった。
千載一遇。こんな機会を与えていただいたことを、さっきの二人組に感謝したいと思った。それとも信じてもいない神か。
彼女は巨視においても、また顕微鏡的視点に照らしてもうつくしい。亀井はこれで論文が書けるとさえ思った。
昼はカレーかうどん。今日はカレーにした。
いつもながら何を話し合っているのかわからない会議と報告書で業務は終了。
最後に恵理子さんのお尻を拝見して眼底にプリントする。毎日繰り返されるこのルーティンの中に、ちょっとした齟齬を発見する楽しみ。
今日はちょっとブラウスがスカートからはみ出していて、ごわごわとした星雲にも似た造形を作っていたのを亀井は見逃さなかった。
帰路、満員電車に揺られヘロヘロになった挙句、駅前のコンビニで缶ビールを2本買った。
日曜日にスーパーに行った時、あまり飲んだらダメだからと買うのを自重したのは何だったのか。滑稽というのはこういうことを言うのだ。自演コントにだらしなく頬が緩んだ。
「それも2本も買っちまって。コンビニは高いんだぜ」
すべてが空回りしていた。
今日も無為な一日が消えていく。ビールがボロボロの体によく吸い込む。
考えてみれば吉井の昇進はごく当たり前の人事だ。それに異を唱えるのは嫉妬以外にないのではないか。
ビールに渦巻く頭の方が世の中を的確に捉えていた。
風呂から上がるとすぐにスマホを握り、それに思いの丈を吐き出した。恵理子さんに告って、こっ酷く足蹴にされる。そんな想像を書き綴った。負の思考は負の回転しか生まない。さらにビールを煽る。
こんな時にはビールは必須だ。今度スーパーに行ったら、迷うことなく一箱買ってくる、と未だ知らぬ神に固く誓った。
翌朝ぼんやり目を開けると、木目がいつもよりのたうって見えた。
亀井がむくりと体を起こすと、時計はいつもより5分早いと告げた。朝の5分の使い道は何げに多い。数ある選択肢から何をしようかと迷ううちに時間は過ぎてゆく。
さらに鏡は最悪の警鐘を鳴らしていたが、そんなことに構うほどの暇はない。とにかくシャツとネクタイを新しいものに替えて、駅に向かった。
少々家賃は高かったが、駅前のマンションにしておいてよかった。会社からの家賃補助のお陰で住居費の負担は軽く済んでいる。さらに独身男、彼女なしではそれほど出費することもない。せいぜい酒代か、外で酔っぱらった時のタクシー代だ。
いつもの満員電車でスマホを開いた。snsのマイページを開くと恐ろしいことになっていた。見たことのない画面。バグったのか。
亀井は投稿記事を見て驚愕した。昨夜知らないうちに上げてしまったらしい短編「悪しからず」の「いいね」が止まらない。見ている間にどんどん数字が増えていくのに怯えさえ感じた。心臓の鼓動もそのスピードに同調する。
「ヤバい。どうなっちまったんだ」図らずもそう口から溢れた。
それからは満員電車に苦痛を感じなかった。会社への道のりが花畑だった。
亀井の頭の中はアドレナリンの海に浸されていた。
一日中スマホの画面にニヤついて過ごした。もしかして、もしかするんじゃないのか。
亀井はその日、果たしてどんな仕事をしたのか、今日の恵理子さんはどんな髪型だったのかも定かではなかった。
所詮snsの気まぐれ。そんな風に思いたい。しかしコメントの絶賛の嵐を読むと、そんな自重は自嘲だと思えてしまう。
亀井は「もしかしたら、これでやっていけるかもしれない」と、確信めいたものを感じていた。
遅い朝、ピッピッピッと鳴り響くスマホの音にいつものように長い髪をくしゃくしゃにして工藤 真理子は目を覚ました。
いつものように?
違う。
真理子はスマホの目覚ましのアラームをセットする習慣を持たない。
「何?何だか、けたたましい朝ね…」
一応、気には止めてみたが、朝のルーティンを崩す程ではなかった。シングルベッドに二つ並べて置いてある使っていない方の白い枕にそっと手を置く。
「おはよう」
随分と前に旅立って、時の止まった夫にその日一日のおまじないのように声を掛けた。それが、優しくて貞淑な妻だった頃の彼女の唯一の名残なのかもしれない。今の真理子は仕事に出れば、社会に揉まれて疲れて帰って来る男達の「愚痴の清掃婦」だ。スナックのママなんて肩書きよりも「愚痴の清掃婦」って呼び名を真理子は心の中で楽しんでいた。
「辛い」「苦しい」「疲れた」「辞める」…
真理子の店は社会の吹きだめのような場所では決してない。むしろ一流と呼ばれるような会社の社員やそこそこの自営主、医師や弁護士、司法書士……等が集まる社交の場だ。そんな彼等でも愚痴と言うゴミを真理子に向かって吐き出す。
それを笑顔でまぁ~るく包んで受け止めて掃除機のように吸い込むのが自分の仕事だと真理子は自負していた。
店に入って来る時には下を向いていた男達も出て行く時は、ほんの少しだけ軽くなった心で顔を上げて去って行くように見えた。
真理子は仕事を終えて家に帰るとその重いゴミをマンションのダスターシュートにポイッと投げ捨てて手を振る。
「バイバ〜イ」
ハイヒールの足元がどんなにふらついていても、その日課の儀式だけは欠かさなかった。
希望なんて大層な輝く尊い物は与えられないが、絶望の淵に立っている人に手を差し伸べる事はできるかもしれない。
でも自分一人で抱え込むのは重過ぎるから、毎日真理子はこうして捨てて軽くする。明日のゴミを拾い集める為のキャパシティを作る為に。
ピピピッ
それにしてもうるさいわね。何かしら?
昨夜のアルコールで少し痛むこめかみを押さえて、ベッドから起き上がるとひんやりとしたフローリングの床が素足に心地良かった。この床も真理子がこのマンションの購入を決めた理由の一つだった。夫が亡くなった際に支払われた生命保険を頭金に真理子は無理をして、この家を手に入れた。新しい人生の再出発は新しい環境でと決めていた。
不動産屋に紹介された物件の中で、駅には少し遠いがセキュリティがしっかりしていて、樹の感触を感じられるちょっと予算オーバーなこの部屋を選んだ。
ピッピッピッ…
スマホはまだ鳴っている。
女性らしいカバーが掛けられたそれを手に取った。
「何?このDMの量!」
仕事柄、普段からDMはよく送られて来るが、今朝の量は半端ではなかった。
最初に店の女の子からのラインを開くと
『ママ!大変、大変!常連の亀ちゃんが大変なことになってる!』
亀ちゃん?
ああ、小説家志望のサラリーマンの亀井さんね。あの人、確か同期の吉川さんって人と次の人事で上のポジション争いをしてるってボヤいてたけど、何かあったのかしら?
えっと、それから…
あら、亀井さん本人からも…
『真理ちゃん 俺 今興奮してます!スゲーことになったかも!とにかく今夜行きます』
何なの?いったい?
送られてくるDMの殆どが『亀井』の文字で賑わっていた。いや、違う!
『悪しからず最高!』
『悪しからず 書いたのってママの店の常連さんだよね?』
意思の疎通をはかる為の手段のはずなのに…
DMが益々、真理子の頭を混乱させた。
見た目の年齢差より最近は言葉や文化で歳を感じてしまうなと思った。でも当の亀井とは5歳とは離れていない筈なのに。
まあ、いいわ。
どうせ今夜、亀井さん本人が来て事情が分かるんだから。
真理子はキッチンに行ってデコレーションを施した長い爪を器用に操りアイスコーヒーのポーションを開けた。ホットならコーヒーメーカーで落とすが、アイスなら、この方が合理的で美味しいと思っている。
冷蔵庫で冷やしてあるグラスに更に沢山のクラッシュアイスを詰めてミネラルウォーターを注くと、お気に入りのアイスコーヒーが出来上がった。
リビングルームにスマホとアイスコーヒーを持って移動する。このリビングには前衛芸術家が描いた「渦巻き」の数々のリトグラフが飾ってある。ゴッホの「星月夜」を観てから、真理子は渦巻きの絵に郷愁にも似た想いを抱く自分の一面に驚いた。それから「渦巻き」の絵を収集し始めた。
そう言えば…
亀井さん、渦巻きと木が好きだって酔って私に話したことがあったっけ。
あれから私達、意気投合して急速に仲良くなったのよね。
真理子はアイスコーヒーを飲み干すと浴槽を洗ってお湯を張った。
今日は何かが起こるかもしれない。
多分、それは今までのような負の出来事の聞き役に回るのではなくて、とてつもなく面白い事が待っているかも…
放り投げたフラン・フランの入浴剤が、くるくると浴槽の湯の中で渦を描いた。
夜になって真理子が店に出勤するとボーイの田中が掃除の手を止めて話し掛けてきた。
「おはようございます、ママ読みましたか?」
普段は無口な田中が自分から話し掛けてくるのは珍しい。
「おはよう、田中ちゃん。読むって何を?」
「えー?!だから、ライン送ったじゃないですか、悪しからず!」
また、「悪しからず」か。
「何なの?その悪しからずって?」
「だから、小説っすよ。亀井さんが書いて投稿した…」
真理子も勿論『悪しからず』が小説ではないか、くらいの見当は付いていた。でも真理子は「小説」とは文芸賞を受賞したり、紙の本になって初めて「小説」と呼べる物なのだと言う頑なな考え方に未だに固執していた。
それだけ真理子の「小説」への思い入れには強いものがあった。
「後で読むから、悪しからず。さぁ、田中ちゃん開店よ」
8時半を回った頃、一軒目の店で腹拵えでもして来たのだろう。噂の張本人の亀井が現れた。
カウンターに腰掛けるなり、
「真理ちゃん、俺さ、今日スゲー事が起きた」
おしぼりで喜びが隠せない紅潮した顔を拭きながら
「山崎をハイボールで、いや、ロックで」
普段よりも格段に高い酒を注文した。
「知ってますよ、亀井さん」
無口なはずの田中が、山崎のボトルからダブルの分量を量りながら口を挟んだ。
カウンターで他のお客様の相手をしていたサユリも
「読みましたよ、悪しからず!すっごく面白かった。亀ちゃん天才だわ~」
声を掛ける。
「どうぞ」
田中がコースターの上に山崎のロックグラスを置いた。それを一気に飲み干すと亀井は、真理子の眼をまっすぐに見つめて言った。
「俺さ、嬉しいんだけど、悩んでるんだよね…」
「書きなさいよ」
「えっ?」
空になったグラスの氷を人差し指で、くるくるとかき混ぜながら、亀井はもう一度真理子に言った。
「俺、書いていいのかな?才能あるのかな?ってさ」
「いいから、書いて、書いて欲しいの」
「真理ちゃん?」
「小説は私の夢だから」
長い夜が始まろうとしていた。いや、二人にとっては朝焼けを待つ短い時間なのか。
亀井がかき混ぜた氷が、溶けた水と一緒にカラカラと音を立てて渦を描いた。
「伊香田本部長、通電です」
女性のオペレーターは、受話器を置いて後ろにいる男に向いて言った。
前かがみに椅子に座る本部長と呼ばれる男はオペレーターの声に目をやり、無言でうなずくと、近くにある黒い受信機を取った。
「…はい、はい」と何度か、相手に応答をして、黒い受信機を置いた。
「大臣か?何事かね?」
少し白髪の混じった細身の中年男性は背筋をピンと立て、後ろに手を組みながら、背後から現れた。そして、伊香田本部長と呼ばれる男に問いかけた。
「機密が漏れているとのお叱りだ」
伊香田は目の前で自分の指を組みながら、視線を前から動かさずに答えた。
「例の投稿か…?」
白髪の中年男性は、本部長と呼ばれる男の席に歩み寄る。
「そうだ」と、伊香田は、簡潔に答えた。
「我が国の国家機密だ。いったいどこで漏れたというのだ。知っているか、伊香田。投稿されたタイトルを」
「『悪しからず』…」
伊香田は視線も動かさず、微動だにせず答えた。
「これは我々に対する宣戦布告かな」
「焦るな上月。まだあれは未完成のようだ。情報が完全に漏れたと決まったわけじゃあない。真偽を見定めるための手はすでに打ってある」
白髪の中年男性 ー 上月は、一瞬、驚いた表情を見せた。
「…あいつを使うのか?」
「ああ、奴しか適任はおらん」
「しかしだな、伊香田」
上月は、後ろに組んだ手を前に広げて、抗議の姿勢を取った。伊香田は組んでいた手を離して、くるくると自分の目の前の空中に渦巻を描いた。
「決めたことだ、いまさらどうにもならん。奴はすでに投稿者の目星をつけて、近寄っている頃さ」
上月は天を仰ぎ「どうなってもしらんぞ」と注意を促した。
伊香田は、また指を組み視線を前から変えなかったが、少し口角をあげたかのようにみえた。
「今日も、夜会える?」
女は茶色の掛け布団を羽織って、ベッドから起き上がり、男に近寄りながら言った。
「今夜は、遅くなりそうだな」
男は鏡に向かってネクタイを締めながら、女に返答した。
「ふーん、私より彼を取るのね」
女は男の背中にピタリとくっついて、じゃれてみせた。
「今日は休みを取っているんだろう。遅くてもいいじゃないか、ここに帰ってくるよ」
「ま、将来有望だから、付き合いも仕方ないわね。私は友達と買い物でも行こうかな、未来の係長さん」
男はくるりと後ろに振り向いて、女の髪に触れ、そして唇に軽くキスをした。
「すまない。じゃあ、行ってくるよ、恵理子」
吉井は、マンションの部屋から外に出て会社へと向かった。
「おはよう、吉井」
吉井は、機嫌が良さそうな男に背後から声を掛けらた。
振り向くと、アルコールの匂いが漂っていた。
「亀井、昨日は飲み過ぎたのか」
亀井は頭を少し掻いてにこっと笑ったのを見て、吉井は理解した。
「ああ、真理ちゃんの店に行ってたのか。元気だったか真理ちゃん」
「楽しかったぜ。お前も来ればよかったのに」
そう言って、亀井は吉井を追い越して会社に向かっていった。
なんだか、楽しそうだな、あいつ…
吉井は、亀井の後を追いかけるように、足を動かした。
「吉井、この案件の進捗状況はどうなっている?」
今日も課長に呼ばれた。
「本案件は、亀井が担当していますね。状況を確認しますので、少々お時間いただけますでしょうか」
「分かった。後で報告してくれ」
吉井は心の中で、課長が直接聞けばいいのではないかとも思うのだが、内実ともに係長になるということを示そうとしているのではないか。そのように納得して、吉井は亀井のデスクに向かった。
「亀井、先日やっていたこの案件はどうなっている」
亀井はパソコンに向かいながら、珍しく手を動かしている。
「その案件は、さっき先方から承認をもらったから、明日内示されるよ」
キーボードを叩く手を止めずに、亀井は即座に答えた。
普段であれば、案件の内容すら覚えておらず、「ちょっと待ってくれ」という言葉が返ってくるのを期待していたのだが。
「仕事が早いな。分かった、ありがとう」
そう言って立ち去ろうとした時、亀井が声をかけてきた。
「今日、恵理子さん、休みかな?」
「そうだな、見てないな」と、吉井は白々しく答えた。
「そうか、恵理子さんの匂いがしたような気がしたんだけどなぁ」
忘れていた。亀井は匂いフェチだったことを。
吉井は気づかれないように、少しずつ亀井のデスクから後ずさりつつ
「もしかしたら、体調悪くて帰ったのかもな」
そう言い残して、課長のもとに報告をするため戻った。
亀井が恵理子のことを前から好いていることは知っていた。
しかし、ある業務がキッカケで恵理子とオレの仲は急激に近くなった。
というより、恵理子がオレにアプローチをしてきた。
そのことを亀井に相談しようとも一時期は思ったのだが、社内で変な噂を立てられたら昇進の足枷となる。
あいつには悪いが、黙って関係を持つことになってしまった。
決して、亀井のことが嫌いなわけじゃないし、信頼していないわけでもない。同期で一緒に入った亀井は、どこか抜けていて憎めない奴だ。オレが出世すれば、いずれあいつもいいポジションに就けてやりたい。
ただ、その前に、恵理子との関係を言わないといけない時が来るだろう。
しかし、あいつには行きつけの真理ちゃんの店がある。
一度だけ亀井に連れられて行ったが、なかなかにいい女だった。
吉井は、課長との報告を済ませ、自席に戻り思念していた。
自責の念に駆られたのか、思い立って、亀井のデスクに向かった。
「亀井、昨日はすまなかったな。今日、行くか?」
吉井は手首を上に2、3回あげて、飲む動作をした。
亀井は少し考えた素振りを見せて、返答した。
「わりぃ。ちょっとやることがあって忙しいんだ」
「そうか。何か習い事でも始めたのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだが、家に帰ってやりたいことがあるんだ、悪しからず」
先に断ったのは、吉井だったため、それ以上誘うことはやめた。
そういや亀井は、何か物書きの類をやっていたようなことを吉井はふと思い出したが、そんなことで飲みを断ることも無い。
何か他に楽しいことでも見つけたんだろう、そう結論付けた。
そうであれば、恵理子の元に帰ろう。
吉井は、スマホで恵理子にメッセージを打った。
「予定がなくなったから、仕事終わったら今夜も会いに行くよ」
すぐに、恵理子からメッセージが返ってきた通知が来る。
恵理子のアイコンは、ゴッホの「星月夜」のイラストだった。
つづく
作者: 歩行者b、sanngo、理生
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