見出し画像

兼業小説家志望「悪しからず」② #創作大賞2024#ミステリー小説部門

前回のお話

全3話

 日曜日、社内の軟式野球大会には、よく知った仲間がラフな顔を並べていた。
 亀井のいる営業企画課チームはそこそこ強いという評価だったが、二回戦の今日の相手は社内最強と噂される第一営業課。そこに吉井はいる。ヤツは入社時からあちらのチームに所属していた。なんでも今の営業部長が第一営業課長だった私たちの入社時に、どうしてもと引き抜いたらしい。ヤツはなんでもできる男だ。

 そもそもこんなことしている場合じゃない。熱中症を運んできそうな風のない青空に、亀井はタマシイを吸い込まれそうな渦巻を見た気がした。

「悪しからず」の続編の筆は思うように進まなかった。亀井にはあの時の勢いが欠けていた。キーをタップしては、バックスペースで舞い戻る。そして空が明るくなったころ、全選択して削除してしまっていた。
続編を早く出さなければ、読者はそんな小説があったことさえ忘れてしまう。流れは考える以上に速いことを亀井は身を以て感じていた。この空のように雲ひとつ残りはしないのだ。

 守備位置のサードからはベンチも、その上の応援スタンドもよく見渡せる。
 スタンドに恵理子さんの姿があった。社内の野球大会なのだから、来ていて何の不思議もないのだが、紫外線を気にする発言を聞いた覚えのある亀井はなんとなく違和感を感じた。
 隣にいるサングラスの男。あいつはまさか彼氏?そんな思いが過ったばっかりに、野球への気持ちが削がれた。
三塁線を抜けるヒットを許し、続くバッターに三遊間を破られた。
バッターボックスには宿敵吉井。三塁塁上にいるランナーに張り付く。
 投球と同時にマズいと感じて二塁方向に飛び出したが間に合わなかった。目の前を抜けたボールを空しくレフトに見送った。
 ふと目をやったスタンドで、恵理子さんが立ち上がって手を叩いているのが見えた。隣のサングラスも手を叩いていた。
「なんなんだ。どういうことだ」たとえ吉井だとしても相手チームに拍手を贈るなんて。
何もかもがチグハグだ。
亀井は空になった三塁ペースを蹴った。

 一塁の吉井を見て、二塁ランナーを見た。ヤバい!奴は三盗を狙っている。ダブルスチールだな。
「タイム」声を張り上げた亀井はマウンドに駆け寄って、バッテリーに向かってホームの方を指差して見せた。
「二塁ランナー気にしとけ」

 プレイボールからの二球目、二塁ランナーが走り出すと同時に三塁ペースに立った。軽くタッチアウト。すぐにセカンドに送球。吉井を一塁に釘付けにした。
「よし」
 拍手喝采の中、軽くグラブを挙げた。恵理子さんも拍手してくれたのが亀井はうれしかった。

 バッティングはさっぱりで、結局3点差で負けた。
これで今シーズンの草野球も終わりだ。と、なんとなく胸を撫で下ろした。
恵理子さんが労いに来てくれるものと思っていたが、スタンドにはもうその姿はなかった。
 一方、隣にいたサングラスがバックネット裏に移動していたのに亀井は気づかなかった。

 グランド整備は負けたチームの役目。亀井はノーヒットの引け目もあって、内野の整備を買って出た。
 トンボを手に、三塁ファウルグランドから抜け目のないように引いていく。

 道具を片付けたときにはもう人影もまばら。しゃがみ込んでバッグにグラブを突っ込む亀井の後ろに男が近づいていた。

ふいに肩を叩かれ振り向くと、サングラスの男。
「ちょっと時間いただけるかなぁ」
サングラスは見た目よりもはるかに高い声をしていた。
「今ですか?」
「ああ、なるべく今。喫茶店に行きましょう」
「忙しいんですよ」
「殺されますよ」
「え?・・・あはははは。何言ってんですか」
「冗談でこんなことは言いません」

 サングラスが名刺を差し出した。

現代討論社 編集部次長 渡邊晃一郎

「政治経済誌の記者さんがなぜ?」
「詳しいことは車の中で話します」

 黒のLEXUSの前で躊躇した。
「あの、すみません。あなたは本当に記者さんですか?間違いなく」
渡邊氏はそれには応えず、スマホを操作した。
「我が社が出ますから、名刺の名前を呼び出してみてください」
呼び出し音に続いて、女性の声。
「編集部の渡邊次長さん、お願いします」
少しガヤガヤした空気の電話口から、取材中との返事を聞いた。
「すみません。疑ったりして」
「それくらいの用心深さは必要です」

 車が動き出すとすぐに渡邊は口を開いた。
「悪しからず、読ませていただきました。取材はどちらで?」
「あ、ありがとうございます。取材なんて一切。すべて想像の産物です」
「あのダム建設の汚職のくだりも?」
「はい、全部。私、これでもイッパシのサラリーマンですから、取材なんてできませんよ。どうかしましたか」
「ビンゴ」
「え!ビンゴ?」
「あの汚職の手口はそのまんま事実だと思われます」
「ま、まさか。あんな・・・一家を殺したっていうのも?」
「はい。すべて。側でご覧になっていたとしか思えない。私の取材ノートそのまんまです」
 背中に粘り気のある汗が滲み出たような感覚があって、亀井は背中を高級シートに擦りつけた。
「ヤバいっすね」
「ヤバいです。身辺、気をつけてください」
「って私、どうすればいいんでしょう」
「誰かと一緒にいることじゃないかな。それから今後、それには触れないこと」
「触れない?そんなんじゃ続きが書けないっすよ」
「んじゃ書かないことだ」
 目の動きはわからないが、渡邊氏は平然と言う。
「なんならうちで働いてくれてもいいぞ。小説を書く暇なんてなくなるけどね。松本清張だって伊集院静だって元はジャーナリストだったんだ。どうってことない」
「このまま続きを書き進めて、殺される確率は?」
「70%」
「え?確実に傘を持っていく確率」
「ただし、ターゲットが起訴されるまでの確率だ。それ以降は気にしなくていい」
「ターゲットって・・・大臣」
「そうです。田中角栄以来かなぁ。あの時は彼の運転手を始め、何人亡くなったんだったか」
「そんなビビらせるようなこと言わないでくださいよ」
「いっそ私たちに協力しないか。疑獄事件は命懸けだがおもしろいぞ」
「へ?私みたいなへなちょこには無理ですよ」
「じゃあ協力を頼むよ。君に近づく者があれば写真を撮ってくれ」
「それくらいなら」

 いつの間にか、車は自宅前に停まっていた。
渡邊氏から赤外線付小型高性能カメラを受け取り、車を降りた。
恵理子さんのことを訊くのを忘れていた、と亀井は渡邊のLEXUSのテイルライトを見送りながら悔やんだ。
この時は、これが生きた渡邊氏を見る最後になるとは思ってもみなかった。
とにかく今は小説どころではない。

 部屋のドアを開けると、昼間の熱と湿り気を帯びたむっとした澱んだ空気が亀井の身体を包んだ。急いで窓を開けようとして手が止まった。

「殺されますよ」

 現代討論社の渡邉の言葉が耳の奥にこびりついて離れない。
まさかな…
そう思ったが窓を開放するより、エアコンのリモコンをONにする方を選んだ。カビ臭い匂いが通風口から涼しい風と共に亀井の顔に吹きかけられた。

 今年、冷房を付けるのは初めてか。

 パジャマ代わりのグレーのジャージに着替えると
すぐにリビングのパソコンを立ち上げた。
最初は酔いに任せてスマホで綴った「悪しからず」だったが、世間からの大絶賛を受けてから、亀井は一端の小説家を気取って続編はパソコンで書こうと決めていた。「続 悪しからず」と題名を打ち込んでみたものの、そこから先へは進めなかった。

「殺されますよ」
ああ、またあの言葉だ。

 ただでさえ続編が書けなかったのに、あんな話を聞かされた後で筆が進むはずがないのは自分でも分かっている。しかし、
「んじゃ、書かなければいい」
と言われて『はい、そうします』と答えるほどの潔さも持ち合わせてはいなかった。一度世間で注目を集めると「もう一度当てたい」と思うのが、凡人の性と言うものだろう。
 凡人?物書きになりたいのに、自分を凡人と認めてしまっていいのだろうか?才能に恵まれたからバズッたのではないか?
亀井は続編を一刻も早く仕上げたかった。二回の高評価を得れば「まぐれ」ではなかったと世間が評価してくれるだろう。
「悪しからず」はダム建設をめぐり一家惨殺事件が起きたところで、犯人の特定が出来ない未解決事件として幕を下ろしている。亀井は「世田谷一家惨殺事件」をヒントにその結末を思いついたのではないかと酩酊した自分自身を分析してみたが、何の根拠もなかった。しかし、ここからメスを入れるとなると、もろに国家機密に触れるのではないか?

 うん?その前に何故、偶然にそんな秘密裏なことをを描けたのだろう?偶然?全ては本当に偶然なのか?目を閉じると眼裏で渦巻きがぐるぐるとどす黒くとぐろを巻いた。

 それにしても腹が減ったな

 ジャージに着替えた後でまた着替え直して外出するのは面倒だった。冷蔵庫を開けてみたが、玉子と納豆くらいしか腹に溜まりそうな物はなかった。仕方なくデリバリーで何か出前を注文しようとして、スマホを掴む手が止まった。
 推理ドラマでは大概、宅急便やデリバリーサービスが殺しを仕掛けにやって来る。Amazonの箱の中に時限式発火装置が仕掛けられていたり、出前のオカモチの中からピストルが出てきて「ダーンッ」で、一巻の終わりだ。いや、今は消音装置が付いていて「プシュッ」でThe endか。
亀井は激しく頭を振った。

 待て待て待て…
いやいや、それはいくら何でも飛躍し過ぎだろ。

 妄想のし過ぎだと自分に言い聞かせてみたが、前歯はカチカチと音を立てて震え続け、冷たい汗が脇の下をつたった。
「一人になるな」
そう言われたが、一人暮らしなのにどうしたらいいんだ?

 落ち着け、落ち着け!そうだ!とりあえずシャワーを浴びよう。

 このまま空腹を抱えて眠るにしても、外へ買い物に出掛けるにしても、草野球でかいた汗を洗い流してからの話だ。そう、例え殺されるにしても身綺麗な方がいい。バカ、どうしてそこへ話が舞い戻るんだよ。
シャワーのコックを全開にして、熱いお湯を浴びた。湯気が浴室の中にふわふわと舞い上る。ガシガシとシャンプーをしていると少し気分が落ち着いてきた。
 何故、恵理子さんは紫外線を浴びたくないのに応援に来ていたのだろう?吉井へのあの拍手は?いや、それはまだいいとして、渡邉と隣同士の席だったのは偶然なのか。
 シャワーを浴びてドライヤーで髪を乾かしても時計の針は、まだ8時だった。明日は営業部は代休を取っていいことになっている。
 亀井は白シャツを着て、チノパンを穿くと渡邉から受け取った高性能カメラをズボンのポケットに押し込んだ。
 この部屋に一人で居るよりも人気の多い街へ出た方が安全かもしれない。その前に自分の精神を守るために外へ出よう。

 日曜日の夜8時を過ぎでも、まだ駅前は人で溢れていた。木を隠すなら森の中へ、人を隠すなら人混みの中だ。亀井はステーションビルの中にある、なるべく混んだ店で牛丼を注文した。パチンと割った割り箸が左右対称にならない。神経をとがらせている自分を辺りに注意を払いながら、汁だくの飯と一緒にかきこんだ。

 うん?待てよ。田中角栄の運転手は自殺だった筈だろ?こうして精神を病んで追い込まれたんじゃなかったのか?それとも、やっぱり渡邉が言うように…

 牛丼の金をレジで払い終えても、亀井の足は家には向かわなかった。数時間前までは予想もしていなかった「死への恐怖感」に押し潰されそうになっている自分を発見して可笑しくなった。
結構な弱虫じゃないか、オレって。
真理ちゃんの店でも行くか。
 酒に逃げるつもりはなかった。でも、どうせ家に帰っても書けない。
亀井は一駅先の真理子の店へ行くためにホームに出た。日曜日の夜といっても親子連れや夜遊びのJK、大学生などで比較的ホームは混んでいた。

「まもなく3番線に列車がまいります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」

 いつものアナウンスが流れた、その時だった。
亀井は背後にふわっと触れる何かを感じて、ゾクッとした。
突き落とされる!?
「誰だ?!」
背筋が凍る思いで振り返ると赤ん坊を抱いた女性が
「す、すみません、この子の手が触りましたか?」
おどおどと謝った。よほど酷い形相をしていたのだろう。亀井と目が合った赤ん坊は火が付いたように泣き出した。
「あ、いや、大丈夫です」
そう言いながら、亀井はホームの柱の影に走り去る黒いパーカーの男を視線の隅に捉えた。

 走る列車に揺られながら、これは単なる「予告」に過ぎないだろう。このまま毎日この恐怖と闘いながらオレは書けるのか?自分に問い続けた。
じゃあ、どうすればいいんだ?渡邉の取材が成功して不審な大物政治家達が逮捕されるのが先か、オレの精神が崩壊するのが先か。否、こっちは生命が掛かってるんだ。

「次は〇〇〜、お出口は右側です…」

 列車が真理子の店のある駅に到着する前に亀井の腹は決まった。
会社を辞めよう。そうすれば毎朝、あの混んだホームに並ばなくて済む。ホームに転落させられる前に「続 悪しからず」を発表してしまえばいいんだ。
『出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない』
経営の神様 松下幸之助の言葉にすがりつきたい思いだった。

 真理子の店に着くとカウンターで常連客と飲んでいた彼女が亀井に気付いて笑顔で招き入れた。
「亀井さん、いらっしゃいませ。日曜日に珍しいわね」
おしぼりを渡されて席に着いた。
「真理ちゃん、オレ折り入って話があるんだけど…」
「えっ?」
「早急に時間作ってもらえないかな〜?」
「いいけど、急ぎなら今聞くわよ」
「うーん…そうだな、人気があった方がいいかもしれない」
「じゃあ、空いてるボックス席にいきましょうか」
「田中さん、オレ、とりあえずビール」
「かしこまりました」
ボーイの田中がカウンターの中から返事をした。

「此処でいいかしら?」
一番端の四人掛けの席に真理子が亀井を誘導した。今日の彼女は濃紺のワンピースを着て、白いハイヒールを履いている。その後ろを歩くとふわりと甘酸っぱいコロンの香りが漂った。恵理子とはまた違う大人の女の色香を感じさせた。
「オレ、殺されるかもしれない」
「えーー?!何言ってるのよ」
真理子は白い歯を見せてコロコロと笑った。
「こんなこと、冗談で言えるか」
何処かで聞き覚えのあるセリフだった。
 亀井は現代討論社の渡邉が今日、わざわざ訪ねて来た事、『悪しからず』が偶然にも国家機密を暴露するような内容であった事をかい摘まんで説明した。
「ふーん、で、私にどうして欲しいの?ボディ・ガードを紹介するとか?」
真理子は田中が亀井のビールと一緒に運んできた赤ワインのグラスに口をつけた。
「会社を辞めようと思うんだけど…どう思う?」
小説を書けと言ってくれた真理子なら、きっと賛成してくれるはずだ。ところが意外にも
「つまり殺されるかもしれないから会社を辞めるってわけね。意気地なし!」
彼女の答は亀井の想像に反していた。

「だって、ついさっきも駅のホームでさ…」
「いい?人は絶対にいつかは死ぬのよ。その命題だけは、どんな億万長者だって、どんな優秀な頭脳の持ち主だって逆らえないの。ビル・ゲイツだってね」
「おいおい、真理ちゃん」
「第一、会社を辞めたら何処に住むのよ?生活費は当面、退職金と失業保険で賄うとして。今のマンションに住めるの?」
「だ、だから〜、オレは小説を『悪しからず』を書き上げて世に出るの」
「甘いわね」
「へっ?!」
「亀井さん、社会って刺激の中でアンテナ張ってたから、今回の『悪しからず』が書けたんじゃないの?もちろん、読ませてもらったけど…」
「それはそうだけどさ」
「じゃあ、踏ん張りどころなんじゃない?」
「でもさ、殺されるかもしれないんだぜ、オレ」
「まだ、そう決まった訳じゃないわよ」
 真理子はワンピースの裾から覗く脚を組み換えながら悠然と微笑んだ。
店内に生けてある真紅の薔薇の残像なのか、亀井の頭の中を紅い渦巻きがぐるぐると回った。

 ガヤガヤと慌ただしく右往左往する人。そして、乱雑に置かれた書類の束。電話している声が、あちらこちらから聞こえてくる。

「ちょっとこっち来い」
 書類の山に囲まれたデスクから、手が見えた。

 デスクから呼ばれた男は、方々から聞こえる声であろう雑音をかき分けて、デスクに向った。
「お呼びでしょうか?編集局長」
「お前、今、何をやってる?」
「仕事です」

 男の口数はいつも少ない。編集局長はそんな彼のことを知っているので、 ふぅとため息を吐いて、編集局長は書類の束を机に投げた。
「お前が渡邊を尊敬していたのは知っている。だけどな、この件からは手を引くんだ」
 編集局長は、そう言って椅子ごと身体を窓に向けた。男は立ったまま何も返事を返そうとはしなかった。

「渡邊はオレと同期でな。あいつは、最後までジャーナリストを貫いた同期の誇りだよ」
 周りの雑音が消えたように男は感じた。
「自殺するなんて思えないのですが」
 男の顔は確たるものを内に秘めているようだった。説明をするかのように淡々と話を続けた。
「渡邊さんは、あの疑獄事件に生涯を費やしていました。あの日、渡邊さんはあの『悪しからず』を書いたと思われる亀井さんに会いに行きました。夜、亀井さんに私は会ってその話を聞いていました。しかし、渡邊さんは、そのままビルから飛び降り…」
 男は編集局長の手のひらに制されて、中断した。

「渡邊は自殺だ。現場には書き置きも残されている。奥さんに先立たれてな、寂しかったんだろう」
「…」
「いいから早川。お前はこの件から手を引くんだ。これは命令だ」
 編集局長は窓の外に視線を向けたまま、腕を組んで、じっと椅子に座った。
「かしこまりました」
 早川はいつもの口調で軽く頭を下げて、編集局長の元をすっと立ち去った。

 渡邊は夜中に渦巻ビルの屋上から転落した。書き置きが残されていたため、警察は事故や事件との因果関係は無いと判断し、自殺で処理された。
 この件は、どこの紙面にも掲載されることはなかった。渡邊が所属していた現代討論社でさえも。

 独り身の渡邊の葬儀はしめやかに執り行なわれた。渡邊という存在自体、この世に居なかったのではないかと思わせるようだった。


 足早に自席に戻る。あの草野球から1週間が経ったのだが、亀井が突然、会社に来なくなった。そのおかげで、吉井の業務量は一気に増した。

 先ほど、課長のデスクに呼ばれて、亀井がやっていた案件をどう処理するか聞かれた。同期ではあるが、あいつがやっていた仕事の全てを把握しているわけじゃあない。吉井は右手にスマホを持ちながら、電話に応答しない履歴を眺めていた。

「亀井の家に直接行くか」
 吉井は、スマホを見ながら、呟いた。

 吉井は仕事に追われていて、この1週間は恵理子とも逢う時間を作れなかった。
 草野球の日以来、彼女の顔を見ていないが、メッセージのやり取りはしているので、お互い大人だ。大丈夫だろう。

 亀井は入社当時から住んでいる場所が変わっていない。独り身だというのに、同じ場所に住み続ける理由が吉井には分からなかった。
 吉井は、家賃が高くても、会社の近くに住むようにしている。通勤の時間が無駄だと思うため、より仕事に集中するためにも、と思うのだが。

 ここにはオートロックはないので、亀井の部屋の前まで行ってチャイムを鳴らした。
 古いチャイム音が鳴って、ドアがガシャッと開いた。
そこには、無精ひげのままの亀井が立っていた。

「なんだ吉井か」
 少し目に精彩が無いように吉井は見えた。
「課長に聞いたんだが、会社を辞めるのか」
 亀井は頭を掻きながら、面倒くさそうに頷き、ゆっくりと答えた。
「小説に専念したいんだ。昔からの夢だったんだよ」
「しかし、生活はどうするんだ?小説で食べていけるかどうかは分からんが、そう簡単でもないだろう?」
 その問いに、亀井は答えなかった。仕事の話をしたかったのだが、とてもそんな状況ではないと思った。だから「もし、何かこまったら、いつでも連絡してくれ。いつまでも、お前はオレのライバルだ」と言った。
 それで良かったのか、正直分からないが、これでいいのだと思うようにした。

 亀井の家を後にして、外に出た。まだ、お昼だ。太陽が燦燦と輝いている。さて、会社に戻るとするか。

 その時、1人の男が近寄ってきた。

「吉井さん…ですよね?」
 スーツを着こなしてはいるが、まだ若い、おそらく。少し警戒しながら、返答をした。
「どこかでお会いしたことがありましたっけ?」

 男は、名刺を差し出してきた。
現代討論社…早川…

「現代討論社の渡邊はご存知ですよね。吉井さんに少しお話をお伺いしたいのです。吉井さんと恵理子さんと、そして、亀井さんの」

 少し汗ばむ。季節は梅雨に入り、夏に向っていた。

つづく

作者: 歩行者b、sanngo、理生

次のお話

#創作大賞2024
#ミステリー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?