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【読書感想文】感情の余韻に浸れる一冊。浅田次郎「霞町物語」



久しぶりに、本屋をはしごした。
どうしてもこの日中に読みたかった。
ネットで1日で届く時代に、その1日すら惜しい。
1時間の帰宅路を、この本と過ごしたかった。

霞町物語  雛の花 -浅田次郎


その日私は、友達の朗読の練習を聞いていた。


私は多分とても幸運な人だと思う。
だって、この物語を「耳から」知れたんだから。


どこに幸運が巡ってくるかはわからないもんだ。




彼女の朗読を聞きながら、物語の情景がどんどん頭に浮かんできた。



昭和三六年ごろの麻布十番の商店街。
芝居好きで、威勢が良くて、凛とした佇まいの祖母と「ぼく」の忘れられない内証話。


「鼻につんと抜ける薄荷の香りを渋茶で味わいながら、ぼくはそのときもやはり、ガラス越しの西日に隈取られた祖母の顔を、美しいと思った。」

「季節は夏のかかりだったのだろうか。
まだ動き出さぬ商店街にはうっすらと朝靄がかかっており、納豆売りとしじみ売りが甲高い声をあげながら店の前をすれ違った。」


その人に会ったことは無いのに、
その景色を見たことは無いのに、
自分のありったけの想像力と経験が重なって
どんどん鮮明に浮かんでくる。


「結い上げた髪と、ぐいと落とした後ろ襟のうなじが、眩ゆいほどに白かった。」


濡れ羽色の髪と、後ろ襟をシャンさせた着物を着た、祖母の姿。

美しいと言う形容詞を使わないで、美しさを表現する。

作中には形容詞のない表現が散りばめられていて、文学的なセンスの表れでもあると思うが、
形容詞で断定しないからこそ、読み手が感情を決められる余白があるんだと思った。



商店街の本屋の孫として育ったからか、
双方の祖父母と暮らしたことが少しだけあるからか、
思い出は数えられるくらいしかないけれど、
そんな、私の今までの人生で見てきた景色と、思い出が物語と重なっていくのがわかった。


声の表現と言葉の表現が掛け合わされていって、生まれる余韻に浸りながら聞いていたら、ポロポロと涙がでてきた。



友達にありがとうと言って別れてから、私はその本のことしか考えられなかった。

内容も、表現も、私に刺さりすぎていたのだ。


この気持ちのまま、物語を全て読みたい。
そう思ったらもう、本屋に行くしかなかった。

3軒目に新宿の紀伊國屋に行って、文庫棚にひっそりと佇む一冊の本を見つけた時、
私は誰も気付いていない、宝を見つけたと思った。



そんな宝を手にして、私は小田急線に乗っている。
いつもの帰り道が、いつより明るく見える気がした。

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朗読から聞きたい思った方はこちら。
(江戸っ子調のテンポと溜め、がすごく素敵な朗読。友達の朗読が載せられなくて悔しい)

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