クリームソーダと煙草からの脱却——「エモい」という悪口——
何々という言葉を使わないようにしているなどというのは何ら高尚な性格を表すものではない。当人のボキャブラリーの貧困を言表しているに過ぎない。若者言葉も、近年の誤用も、流行語も、自分の語彙としてこそ世界は豊かになるのである。例えば、「ヤバい」はさまざまな場面で使える言葉であるが、なぜかそれが豊富な表現に取って代わって使われる、表現の貧しさとして槍玉に挙げられる。しかし、明らかに「ヤバい」は「ヤバい」にしかない軽妙さを持っており、危ない、最高、などとは異なる響きを持っている。
私が「エモい」を使わないようにしているのは、普通「エモい」が悪口だからである。だから、良い表現に触れ必要に迫られて使う際には「良い意味でエモいね」と言ったりする。言われた方には意味のわからないフォローだと思われようが、そのまま言えば単なる悪口になるのだから仕方がない。
なぜ「エモい」が悪口なのかというと、初期にはおそらく個々人の素直な感情の揺れ動きを「エモい」と言ったはずだったのに、いつの間にやら「エモい」感情が「エモ」のフォーマットに侵略されてしまったからである。表現者は「エモ」を狙って表現するようになってしまった。結果表現から直截な感情の発露は蒸発し、残ったのは凝り固まった修辞法と猫撫で声で感性に訴えかけようとする醜悪な作為である。
精緻な内心の蠢きをストレートに表現すればするほど、表現から立ち昇る感情は女々しくなる。女々しいというのはつまり、敏感に心に触れるということであって、決して貶める意味のないことを強調しておきたい。しかし、不思議なことに、ストレートな表現は同時に男らしくもなる。つまりは潔さが生まれるということだ。
私は中原中也『盲目の秋』が好きだ。中でもⅣを引用したい。
“せめて死の時には、
あの女が私の上に胸を披いてくれるでせうか。
その時は白粧をつけてゐてはいや、
その時は白粧をつけてゐてはいや。
ただ静かにその胸を披いて、
私の眼に輻射してゐて下さい。
何にも考へてくれてはいや、
たとへ私のために考へてくれるのでもいや。
ただはららかにはららかに涙を含み、
あたたかく息づいてゐて下さい。
――もしも涙がながれてきたら、
いきなり私の上にうつ俯して、
それで私を殺してしまつてもいい。
すれば私は心地よく、うねうねの暝土の径を昇りゆく。”
この詩の胸の内を晒す様はみっともないほどだ。あまりにナイーブで、ビクビクとした感情が敏感に心に触れる。しかし、一方でこの詩から潔さを感じはしまいか。素直に内心を表現するのは勇気のいることだ。これほどまでにナイーブになるには、ある種の決断さえいるのではあるまいか。
私が思うに、近頃「エモい」とされる表現には、女々しさと対になる男らしさがない。どこかで内心の開示に躊躇し、結果拙い修辞やわかりやすい共感によって鑑賞者に訴えかける。その猫撫で声が私をぞっとさせるのである。表現者は鑑賞者に阿ってはいけない。なぜならば、表現されるのは表現者の内部であって、鑑賞者の内部ではないからである。
もちろん、女々しさがなく男らしいばかりでもいけない。繊細な感情の機微のない潔さは想像力の欠如であり、表現の敗北だからである。勇ましいばかりの国家称揚や差別思想に表現はない。
私にも「エモい」と使いたくなる時はある。「エモい」は感情を外的に動かされるというよりは、対象と深く交感して感情を動かす、没入的・自発的な心の動きにその特異性があるように思われる。心を動かされるのではなく、心を動かす。そういった表現は表現の一つの到達点でもあろうし、それ自体決して忌避されるものでないことはわかっている。
それでも私は、現在のところ「エモい」に「良い意味で」をつけざるを得ない。真に「エモい」表現は直截さと繊細さを有し、鑑賞者の心は動く。しかし、そうではない繊細なような、いやかえって鈍いような表現が「エモい」と消費され、表現者さえ鑑賞者の「エモ」にへつらった表現を捏造している。私は、クリームソーダと煙草から脱却するところから、表現を始めたいと考える者である。
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