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雀の子が落ちていた話

 朝起きて玄関を開けたら、目の前に雀の子が落ちていました。
 じっと目を閉じて動きませんが、生きてはいます。
 誤って巣から落ちたのでしょうか?この子はかなり大きくて、羽根もしっかりしていますので、やんちゃをして巣から飛び出してしまったのかも知れませんね。

 先日、koedananafusiさんのところでこういう時にどうするか、なぜ人間は助けようとするのかについてかなり深遠な内容の記事を読ませていただいたところだったので、この雀の子を見た時はデジャヴかと思いました。(^^)

 さあ、これをどうしたものやら。
 生きもの大好き少年だった幼い頃の私なら、迷わずそっと手で抱いて、先ずはスポイトで水を飲ませ、段ボール箱に古いタオルを敷いてその中で保護していたことでしょう。そして、翌朝冷たくなったヒナを見つけ、泣きながら庭の隅にお墓を作って埋めていました。そういうお墓をいくつ作ったかわかりません。

 でも、大人になった今の私はそうはしません。ウイルス感染のリスクもさることながら、野生の生き物にむやみに手を差し伸べるべきではないと思っているからです。
 こういった場合、必ず親鳥がどこかで見守っているはずですので、先ずはそっとしておくのが一番。むやみに人間がさわったりすると親鳥は危険を察知してヒナを見放してしまいます。
 でも、こんなところにいたら、カラスやキツネなどにさらわれてあっという間に食べられてしまうかもしれません。どうしたらいい?
 かわいそうですが、それもまた自然の摂理。彼らはそういう厳しい世界の住人なのです。私はそう割り切って考えています。

私は「生きろよ!」と念じてただ見守るのみ。

 それにしても、人はどうしてこういうときに本能的に「助けたい」と思うのでしょうか?「可哀そうだから」「小さいから」「憐れだから」「かわいいから」いろいろ思いつきますが、私は一言で言うなら人の持つ「慈悲の心」が突き動かすのだろうと思うのです。
 慈悲深いとは、弱い立場のものに対して「いつくしみ、情けをかけ、かわいそうに思うこと」を表現する言葉です。 見返りを求めず、思いやりをもって「何かしてあげたい」という気持ちが慈悲の心でしょう。
 ただ、同時に我々は逡巡したり、葛藤したりもします。そうして迷っている間に一瞬のタイミングを逃して救えたはずの命を救えなかったり、良かれと思ってしたことが逆に命を縮めることになってしまったりという苦い経験も私にはたくさんあるのです。

 ブッダは人がいざという時に弱いものを助ける行動をとることは難しいことだとおっしゃっています。

よくよく考えてみると、慈しみの心というものは、けっして生やさしいものではない。
慈しみの心の土台になるものは、もとより、人間の本性のなかに存するものである。
わが子は愛しい。わが親はいとしい。兄弟が悲しい目にあうと、わが身も惨然として涙を流す。
その慈しみと悲しみの心を、ひろく人間のうえに、さらに、生きとし生けるもののうえに拡げてゆくとき、それが慈悲というものである。
だが、それを拡大してゆこうとすると、さまざまな煩悩がそれを妨げる。
利己心もそれである。貪りの心もそれである。怒りや悪意もそれを妨げる。

なるほど。だからこういう局面に出会うと我々は逡巡したり葛藤したりしてしまうのか。

 人が慈悲を行うのはなかなか難しいことなんですね。^^;

 ところで、雀はどのくらい弱い生きものなのでしょうか?
 彼らの自然界での平均寿命は一説によると3年。(もっと短くて1.8年という研究結果もあります。)雀は飼育下では15年程度は生きることがあるそうですので、病気や天敵、餌不足や悪天候などの自然条件にさらされながら生きるということがどれほど過酷かがよくわかります。しかも、こうした厳しい環境下ではヒナたちの死亡率が格段に高くて、平均寿命を押し下げているであろうことも容易に想像がつきます。
 でも、それでも私は雀は強いのではないかと思うのです。なぜならこれだけ死んでいるのに、戸外にはものすごくたくさんの数の雀が飛んでいて、まず絶滅しそうにはないではありませんか。つまり、個々の雀は弱くても集団としてはかなり強いというわけです。

 さて、この記事を書こうとして調べているうちに、偶然次のような記事を見つけました。今回の話とは少し観点がずれるかもしれませんが、生物の種としての生存についてすごく明快な記事でしたので貼っときます。

 原文のYahoo知恵袋の方はこちら。↓


 夕方になって、あの雀の子はどうしたかな?と見に行ったら、もう姿がありませんでした。

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