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くいいじ 〆切中

【2009年発行】の「食べ物連載 くいいじ」(文藝春秋刊)に掲載した文章をnoteに再掲致します。記事の内容は原稿制作当時の出来事です。
(スタッフ)

食べ物連載「くいいじ」 〆切中

〆切中だ。激しく〆切中だ。
一昨日、前の〆切のペン入れを終わらせて仕上げをスタッフに任せてよろよろしながら仕事場を出た。

家へ帰ると倒れるように眠って、次の日――昨日だが――は朝からたまっていた家事をまとめて片付ける。
二階の奥から順に雑巾がけをして廻る。
洗濯をして日の当たる部屋に干す。
脱いだままかけてあった着物を畳む。
風呂そうじとトイレそうじを済ませなんとか一段落つくと、いそいで身支度を整えた。

担当編集者が来るのは昼の十二時である。
そもそも既に〆切を過ぎている。
前の〆切が押した為に担当者Gは毎日不安でよく眠れない様子。
なんと言っても年末進行なのだ。
ただでさえ通常よりも早い〆切なのに、通常よりはるかに遅い進行の私である。
せめて十二時迄に何枚かは…いや、もうドーンとネームは全部出来てます!! ぐらいは言ってあげたい。
担当の為にも自分の為にも…。

集中しよう!!
と決め、仕事中おなかが空いた時に備えてゆで玉子を作る事にした。
十五分後、ゆで上がった玉子を全部食べてしまい呆然としていると玄関のチャイムが鳴った。

仕事中の楽しみ、と言うともうひたすら食べ物の事に尽きる。
話を考えている時はそうでも無いけれど絵に入ると脳はヒマになって来る。
ただひたすら浮かんで来る映像を紙に描き写して行く作業なので思考は必要無いのである。
そうすると今日の晩ご飯の事やおやつの事を一所懸命に考えてしまう。
その日も午後四時頃にネームが終わったので下絵に取りかかりながらもひたすら晩ご飯の事を考えた。

家の冷蔵庫にはチーズとしなびた長葱しか入っていないので買い物へ行くか。
時間が無い。
料理をする時間も片付ける時間も無い。
外食にしよう、と思う。

横でひたすら待って居る担当者に
「ねえ、今夜はインド料理かタイ料理に行こうよ」
と提案するとすかさず沈んだ返事が返って来た。
「タイカレーの素って買ってありますか?」
あきらかに外へ出すまいとしている。
家でタイ料理+インド料理→タイカレーを食べて我慢しろ、と言うことである。
外へ出る時間が有ったら一枚でも多く描きやがれと言う編集者魂と私の喰い意地が火花を散らす。
負けないぞ。
食べる楽しみの為なら担当の圧力にもうち勝ってみせる!!

私は…こっそりと別の部屋へ移動し、店へ予約の電話を入れた。
そしてそれから「もう予約しちゃったから」と事後承諾を得る。
我奇襲に成功せり、である。
葉山や江の島にあるタイ料理店は往復の時間を考えてあきらめ、近所のダイニングにしたところに誠意を見せたつもりで予約の時間を目指し一心不乱に仕事をする。

七時半に予約を取ったので七時までにあと十枚!!
奇襲を受けた担当としては七時までで十枚できるならば九時まで頑張って二十枚と言いたいところだろう。
しかし集中力と言うものはそう長く続くものでは無い。
限り有る資源なのである。
「七時まで十枚、そして食事」
と言う区切りが有るから走れるのであって
「今日中に全部。食事は適当に」
だとぼんやりしてしまって進まないかも知れない。
ううん、進まない。

そんな思いを胸に仕事をする私を神は見放した(〆切守らないから)。
結局夜に雨が降り出したのと担当Gの無言の圧力に負けて、買って来たパンと残りもののチーズで夕食にする事となってしまった。
もう、タイカレーですら無い。

下絵の手が遅くなる。
楽しみが無くなると仕事は進まないのだ。
そんな私を見かねてか、夫が薪ストーブの前で食事をし、その後ブランデーでも飲んだらどうだと提案してくれた。
ストーブの前でのチーズとパンなら話は別である。
大変楽しみになって来た!!
そこからの巻き返しは我ながら、こんなにも食事につられて仕事してんのか…とあきれる程であった。
あっと言う間にノルマを終わらせて晩ご飯にありついた。

そして一夜明けて今日も昼頃スタッフと担当が来て残りをイッキに仕上げる予定…の前にこの「くいいじ」の〆切がある。

家事をひと通り済ませ、着物に着替えると私はとことこと駅前へ出掛けた。
今日はお鍋が食べたい、と朝のベッドの中から思っていた。
春菊と白菜、しめじに真だら。
悠長に買物をしている場合では無い。
それでもうどんでしめるか中華麺でしめるかスーパーをうろうろし、長葱の入った袋をぶら下げて帰って来た。

もう大分散ってしまった紅葉の葉が地面に広がり水面に映った炎の様に美しい。
左の山には黄金色や橙色の木が晩秋の日差しを浴びて輝いている。
家に着いたらすぐ原稿に取りかかって超特急で終わらせよう、と思う。
もちろん今夜のお鍋の為にである。

©安野モヨコ 無許可転載禁止

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