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ひととせ⑧【連続短編小説】

※前回の「ひととせ⑦」はこちらから

 はたして『サキ』はいなかった。

 事態を飲み込むのに2ヶ月近く掛かっていた。その間、実は何度かサキが会いに来てくれたのだが、これは主治医にも母親にも伝えていない。恐らくはまた僕がおかしくなったと、一方は何かを諭し、また一方は涙を流すのだろう。そんなことは僕は嫌だった。

 母はあの日以来、ほとんど毎日のように病室に顔を出す。最初こそ、少しの哀れみを滲ませた表情ではあったが、段々といつも通りの淡々とした母の顔を見せてくれた。それまでは半年に一度程度しか顔を合わせない親子だったのが、急に毎日顔を合わせるようになり、それも微妙な表情だったのはなかなかに辛くもあったので、時々笑ってもくれるようになって心底安心した。話を聞けば、仕事を辞めて以来僕は実家に帰っていたらしい。なんとびっくりである。けれど僕の中ではそれまでの一人暮らしが続いていて、母と顔を合わせるのは半年に一度程度と思っていたのだが、これもまた僕の創造であったようだ。

 毎日、母の顔を見る度に、そう言えばと思う。

 サキは、母の若い頃の顔に似ているかもしれない。そう思うと、僕の創造範囲の狭さに情けなくなる。身内からしかネタが出ないのか。そもそも『サキ』という名前はどこからきたのかと頭を捻ったところ、これもまた安直なことに自分の名字から抜き出したものと思われる。病室で名前を呼ばれる時の僕は往々にして思考が停止し、ぼーっとしているものだから、名前を呼ばれたとて、最初の2文字が聞こえていなかったりする。僕の名前は『カワサキ イチロ』で、病室や待合いで呼ばれるならば「カワサキさん」である。ここで最初の2文字をはずしてみると「サキさん」となり、まんまと『サキ』の出来上がりである。

 実にしょうもない。

 僕は何度も思い出しては誰もいない病室で小さく笑っている。

 それは、小さく笑えるようになった、とも言える。

 何でこうなってしまったのかと、初めのうちはそんなことばかりを考えていた。死ぬことは何度も考えていたせいで最近はそれに飽きてしまったがために考えなくなったが、基本的には後ろ向きなことばかりを思う。

 僕は仕事にまじめに取り組んでいた。ただそれだけだったはずだ。周りのほとんどの人たちと同じように、毎日をまじめに生きてきたはずなのに、なぜ僕だけが急に止まってしまったのだろうと、思っては泣いた。人間関係も取り立てて問題はなかったはずであり、僕は健やかに生きる他の多くの人たちと同じように健やかであるはずだ。

 でも、『はず』は『はず』でしかないのだった。現実と自分の思うそれとでは大きく違っていたのである。

 僕は知らずまじめに闇にいた。

 これという原因や理由がなくてもこうなる人はいると、主治医の彼は言った。まじめに、自分の目に見えるその先の道をひた進む。その道の幅が先細りであっても、道がある限りただただ進むのだ。そうして、細まった道で足を踏み外したそのときにようやく自分が落ちると言うことに気づくのだ。落ちる、落ちている、落ちた、だ。

 いずれ、どこかにまた、ふっと道が出来ると思っている。そのときを待っている間に、僕はせっせと梅の花を折り続ける。

 そうして折った梅の花を、彼女が片端から握りつぶすのだ。

 その顔はかくも優しく、悲しげで、美しい。

 季節は2月。数ヶ月ぶりに自宅に帰り、通りの公園を見れば梅の花が咲く。
 彼女が僕を待つ。

                                                                             続         ※最終回※   ひととせ⑨【連続短編小説】-                                                   2月27日 12時 更新

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