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春やら夏やら②【連続短編小説】

※前回の「春やら夏やら①」はこちらから

    そう言えば、私は歌手になりたかった。

 そんなことを何年、いや何十年かぶりに思い出したのは、付き合ってまもなく3年目となる彼の一言がきっかけだった。

「結婚、しようか」

 今年の元日の、朝焼けの綺麗な時刻だった。       
 初詣の帰り、境内の露店でベビーカステラを大袋で買って、その中の形の崩れた3個ほどをおまけでもらったことが妙にほくほくしていた私。丁度そのときだった。

 これはいわゆるプロポーズな訳だろうが、どうだろう。ムードも何もアレである。でも、まぁ、確かに彼の持つ独特な間や雰囲気からすれば、こんな場所でこんなタイミングでプロポーズを受けることくらい想定出来ることかもしれない。そしてそれと同時に、私は私であまり驚くことはなかった。

「うん、そうだね」

 露店で、ベビーカステラを買うか、それともカリカリチーズスティックを買うかと言う悩みに、ではベビーカステラにしようと言われ、うん、そうだねと返すような流れとテンションで、私は彼に返事した。

 そして、そう言えば歌手になりたかったのだったと思い出したのである。

 思い出して、私は思考の渦にゆっくりと落ちていきながら、彼の手のひらをぎゅっと握ったのだ。いつも飄々として、喜びも怒りも哀しいも楽しいもすべては並列した事実であると言いた気な彼の、その手のひらにじんわりと汗が湿っていたことに、私が少しだけ安心したのもそれこそ事実。彼もまた同じ40歳である。

 そこから半年の今、私は時々、歌手になりたかったと言うことを思い出すのである。プロポーズの何がきっかけなのかも分からないし、そもそも思い出すのはいつも『歌手になりたかったのだ』と言うことであって、今なりたいわけではなさそうである。
 『なさそう』と言うのは、自分でももうそう言うところがよく分からなくなってきたのだ。

 彼とは気持ちも体も相性が良いと思っている。日常の何があっても、悪くないと思えるのがその理由である。少し気にくわないことがあったときに口をすぼめながら小さく「ちぇっ」と言ってみたり、出かけるときには必ず右足から靴を履くところや、いつも遠くを見ているところなんか、悪くないと思える。

 悪くない。ちゃんと好きである。言い方がうまく選べないけれど、私の中でちゃんと最上位であって、だからこそ、そうだねと返事をしたのだ。

 だから、たとえ私が昔に歌手になりたかったとしてもそうでなかったとしても、私は彼と結婚するだろう。

 そう言うものだと思っている。

 あなたは果たして何になりたかった?
 何になりたくて、今どうしているのだろう。

                                                                             続                      -春やら夏やら②【連続短編小説】-                                                 6月20日 12時 更新

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