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私たちはみな「主観的世界」の中で生きている

先日、私が所属している全国的な団体での定例勉強会がありました。
この定例勉強会では、団体の所属している
会員さんの自身の実践報告をみんなで聞いて、
その話からそれぞれが気づいたことや
感じたことをグループごとに
「ディスカッションする」ことで学びを深める、
というやり方を行っています。

 先日の実践報告のテーマは
「部下や社員の自主性、主体性を高めるには」というものでした。

実践報告の内容はさておき、興味深いのはそのあとのグループごとの「ディスカッション」という名の「ふりかえり」と「わかちあい」です。

それぞれが実践報告の話を聞いて、
感じたことや気づいたことを言っていくのですが。。。

 Aさん:「私は〇〇さん(実践報告をした人)が、なんでそんは風に”自分自身が変わる”ことができたのか、に興味を持った」

 Bさん:「〇〇さんの奥さんの言葉が印象に残った。あの言葉を言えるのは素晴らしいと思った」

 Cさん:「私は、〇〇さんの部下の皆さんがよくあんな〇〇さんの下で働いていられるな、と思って関心していた」

 Dさん:「そもそも人の自主性とか、主体性って、何でしょうか。
何をもって「自主的だ」とか「主体性がある」と言えるのか。
そこが曖昧なのに、部下や社員の「主体性を高める」っていうことを語ることができるのか」

 と、四者四様の感想が語られました。
はい、感想なので当たり前っちゃ、当たり前なのですが。。。

 ではなぜ、同じ時間に、同じ環境で、同じ人の、同じ話を聞いて人の印象に残ることや感じることがこんなにも異なってくるのでしょうか。。。

 


この絵をどこかでご覧になったことがあると思います。

これはルビンの盃という有名な絵です。
この絵では中央に盃が見えます。が、
黒の部分に注意を向けてみると左右に二人の顔が浮かび上がってきます。
黒の部分を背景として見ているときは、
白の盃が図として浮かびあがって見え、
白の部分を背景として見ているときは、
黒の二人の顔が図として浮かびあがって見えるます。

 ではこちらの絵はどうでしょうか。

老婆か若い女性が見えるはずです。
ただ、一度あるもの(例えば、ここでは老婆)に見えてしまうと
中々他の異なるもの(若い女性)を見つけ出すことができないといったことも私たちがものを見る特徴としてあります。

これは一度出来上がった偏見や思いこみを私たちは中々修正できない、などといったことも当てはまると言えるでしょう。

 また、もう一つ重要なことは、
同時に二つの図柄をみることはできない、
ということです。

つまり私たちは同時に見ているようで、
実はどちらか一方にしか焦点を当てて
見ることを素早く行っているに過ぎない、ということです。

 どちらの絵を見るか、ということに
どちらが正しいか正しくないか、というものは存在しません。
「正しさ」や「正解」を
導き出そうとするのは不毛なやり取りです。

 大切なことは、人にはそれぞれの「ものの見方:主観」があり、
それぞれがその「主観的世界」のレンズを通してものごとを見て、
その意味を「解釈」しているのだ、
私たちのものごとを見る、あるいは聞く、という行為は、
それぞれの「主観的世界」による「解釈」なのだ、
ということをわかっていることです。

 そして、同じものごとを見ても
それは人によってその捉え方は異なるのだ、
ということを前提にしてお互いの「ものの見方:主観」を尊重したうえでコミュニケーションをとることができるかどうか、
ということなのだと思います。


「体験を語る」とは
その行為を通じて、自分自身の主観的世界を確立していく、
ということです。

私たちは自分以外には誰一人として
全く同じ体験をして生きている人は存在しません。

私たちは千差万別の主観の中で
様々なものごとを見聞きしたものを「解釈」して
そこに自分なりの意味付け:ナラティブを形成しているのであり、
私たちはその中で人間同士の関係性を
つくって生きています。

 全ての人が独自の主観的世界の中で生きています。
そして私たち人間は集団の中で生きるなかで
人間らしく生きることを学んで行きます。
だから人間として生きるために、
それぞれの主観的世界をわかちあうことが必要になります。

そのためのツールが「言葉」であり、
お互いの世界をわかちあう手段が「対話」です。


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【Anney通信】組織を耕し、人間を育む


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