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“在ること”が出来なくなったこと。

もしかしてだけど、もしかしてだけど(どぶろっく懐かしいな)、ほんとは淋しいとか哀しいとかじゃなくて、“ただそこに在れない”だけなのかもなぁと思ったりしました。ただそこに在ることが、死ぬほど難しい今。昨今。
指を故障して、ピアノが思うように弾けなくなってから。いや、それより前から。
創作してくれ、アーティストだろ、と大好きなダンサーに肩を揺さぶられて、疲れたと呟いてから。

ハインラインの夏への扉の最初のシーンを覚えている人、いるのかな。冬になると猫のピートが家中の扉をあけてくれとせがむ。どこかの扉が夏へと繋がっていると信じる彼は、夏への扉を探し続けている。

“在ること”は難しい。才能とか云々じゃない。ずっと潮時を感じている。
読むことと、観ることをやめなければ、いつかは戻れるかもしれないし、砂時計の砂が降り積もって先に首が落ちるかもしれない。

それは別にペシミスティックな考えじゃないんだと、静かな雪国では少し分かる。
ありふれた絶望はそこらじゅうに散らばっているのに、私なんかのありふれた哀しみは汚れた雪みたいに無意味なのに、どうしてこんなに“在ること”が難しいのか、たぶんもう分からないだろうな、ということだけが分かる。

ペシミスティックじゃないよ(´・ω・`)

在れなくても、まだ死ぬわけじゃない。
深く沈む雪の中で、あるはずのない夏への扉を、まだ少し探し続けている。

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