恐怖の力くらべ(頚椎腫瘍 25)
手術が済んで間もない頃から、N先生は腕や脚の筋力が術前とくらべてどう変化したか、たびたび調べに来た。
記録をつけていないのでわからないが、先生の方では週1回とか決めて、定期的に調べていたのかもしれない。
「アンヌさん、力くらべをしましょう」
そう言って、まず、両手を広げて指先を鉤形に曲げ、ちょうど猫が爪を出すような手つきをさせて、上から手の甲を押さえつける。
力くらべだから、私は先生の力に逆らって、手と指にぎゅっと力を入れている。
それから手をひっくり返し、反対方向に抵抗する力を試す。
つぎに、両腕を上に上げて万歳させ、先生がその腕を押さえて下に降ろさせようとする。このときも、先生の力に逆らって精一杯万歳していなければならない。
最初の頃は首の傷が痛くて万歳そのものができなかった。
そのうちに手が上がるようになってきたが、万歳した手を先生に押し下げられると簡単に負けてしまった。
手と同様に足の甲を押さえて足首の力を試し、足の裏を押し返す力と腿を閉じる力も調べられた。
術後はやせて脚の肉も落ちてしまい、ベッドに寝たまま足を上げて見ると、申し訳程度に残ったふくらはぎの脂肪が細いすねにぶら下がっていた。
そんな情けない脚でも、入院初日には足の裏を押されて抵抗できずに膝が曲がってしまったのが、先生の手を押し返す力が戻っていた。
太腿は入院前から左右の太さが違っていた。それに気がついたのは8月のことで、計ったら右の方が1センチ細かった。
例のF病院の整形外科の老先生に言うと、
「人間の体は左右対称じゃないんだよ。前にも計ったことある? ないでしょ」
と一蹴されたが、9月になって計ると左右の差は2センチになっていた。
その差は手術を受けるまでにもっと広がっていたはずだ。
手術の後では自分の腿を見る機会がなかったが(浴室には全身を映す鏡がなかったので)、退院してからお風呂に入ろうと裸になって、ドレッサーの鏡に写った全身を見て驚いた。
右の腿だけげっそり肉が落ち、何重にも皮がたるんでいたからだ。
それでも筋力は確実に戻ってきていた。
N先生に「脚をしっかり閉じていてください」と言われて腿に力を入れていると、先生が腿の間に手を入れて押し開こうとしても開けなかった。
おっ、すごーい。こんなに力がある。
いつだったか、レイプされそうになっても女性が股を閉じていようとする力は絶大で、簡単に開けるものではないという話を聞いたことがある。
検査だから先生は私の脚の力に合わせて加減していたとは思うが、この話が本当であることを実感した。
一方、リハビリ室では腕の力をつけるために野球のボールを持って、両腕を交互に上げたり下ろしたりする自主トレをしていた。
ボールは重さがまちまちで、軽いものは100グラムから、重いものは500グラムぐらいまであって、患者が自分の力に合わせてボールを選べるようになっている。
私は右手の方が弱いので、右手に200グラム、左手に250グラムのボールを使っていた。
自主トレの後はW先生の訓練。
先生が握手するように私の手を持って、腕の上げ下ろしをさせる。
上に上げるときには先生は力を入れず、下に下ろすときに上向きに力を入れるので負荷がかかり、腕の筋力をつける訓練になる。
リハビリ室に通うようになってから少しずつ腕の筋力がついてきて、N先生と力くらべをしても多少は抵抗できるようになった。
筋力がついた以上に、腕に力を入れても首の傷が痛くなくなったのが大きかったと思う。
首の傷が痛くなくなるにつれ、カラーをはめて起きている時間が長くなった。
長時間起きていると肩が凝る。
肩が凝るのは頭の重みを首が支えられないからだ。首にはめたカラーのせいで、頭の重みがそっくり肩にかかってくる。
首の手術をした者が切実に感じるのは、自分の頭の重さだった。
頭がこんなに重いものだということを、ふだん感じている人はあまりいないだろう。
肩が凝りやすい人でも、凝ったら首を回してほぐせば楽になる。
ところが、我々は首の筋肉を動かすことができないので、首から肩にかけてガチガチに凝ってしまう。
私は起きている時間が長くなって肩が凝るようになったので、毎晩看護師さんに湿布を貼ってもらっていた。
皮膚が弱くて市販の湿布では真っ赤にかぶれてしまうが、病院で出してくれる布の湿布(カトレップ)は続けて貼ってもかぶれなかった。
いつものようにリハビリ室に行って、W先生を相手に目一杯腕の運動をしてきた日の夕方、N先生が力くらべをしにやって来た。
「アンヌさん、力くらべをしましょう」
これまたいつものメニューで、N先生を相手にさらに力を振り絞るはめになった。
その晩も、看護師さんに肩に湿布を貼ってもらって眠りに就いた。
夜はヒーターが切れてしまうから暑いはずはないのに、術後は夜中に目が覚めるといつも背中に汗をかいていた。
横向きに寝て背中に空気を当てたくてもできないので、看護師さんにパジャマと背中の間にタオルを入れてもらう。
朝になるとタオルは乾いていた。
さて、夜中に目が覚めたとき、タオルがシワになっているらしく背中にごろごろ当たって痛かった。
ところが、タオルを伸ばそうと背中に手を入れてみると、タオルは入っていなかった。
そうだ、まだ看護師さんにタオルを入れてもらっていないんだ。
でも、なにかが背中にたまっている。パジャマかな?
もう1度背中に手を入れてパジャマのシワを伸ばそうとしたが、パジャマは全然シワになっていなかった。
ごろごろ当たって痛いと思ったのは、背中の筋肉痛だった!
リハビリで目一杯力を出した後、N先生と力くらべをしたのが原因だ。
うわー、参ったなあ。痛くて眠れやしない。
看護師さんを呼んで、背中にも大きな湿布を2枚貼ってもらった。
翌日、リハビリ室でW先生に夜中の災難を話すと、
「N先生につぶされたな」
と、軽く笑われた。
N先生にも同じことを言ったら、まったく表情を変えずに、
「まだ筋力がついていないんだな」
と、独り言のようにつぶやいた。
あらら、それだけ?
ちょっとぐらい同情してくれてもいいのに。愛想のない先生。
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