見出し画像

別の選択肢を与えれば充分?「伝統的家族観」についての走り書き

こんにちは、あんなです。

先日名古屋地裁にて、同性婚が認められないのは憲法24条1項「婚姻の自由」、2項「個人の尊厳」、および14条「法の下の平等」に反するという判決が出ました。
同性婚認めないのは憲法違反 違憲判断は全国2件目 名古屋地裁

同性婚導入に向けて大きな一歩となる判決に、束の間の喜びを感じています。

日本における「婚姻」については、同性婚をはじめ、今に至るまで様々な側面から長年の戦いが続いています。その度に「伝統的家族観」というフワッとした家父長制度維持のためのキーワードによって、論理的な主張は全て飲み込まれてきました。

同性婚判決に対しても「どうしてわざわざ法律婚をしなければいけないのか。事実婚や、各自治体の同性パートナーシップ制度を充実させれば良いじゃないか。そんなことをしてまで『伝統的な家族観』を壊す必要があるのか」という愚かな主張を散見します。(その「伝統的家族観」が女性に選挙権が無いころから形成されてきたということは、都合よく除外されます。)

このような主張がなぜ愚かなのか、という点はこれまで私自身も主張してきましたし、多くの専門家によって言語化されてきましたので、ここでは割愛いたします。

今回のこの文章で私が着目したいのは、「一つの権利を認めずに別の方法を(マジョリティが)提案する暴力性」です。

同性婚を認めない代わりに、事実婚制度を充実させる。
夫婦別姓を認めない代わりに、通名使用を普及させる。

パターンが見えませんか?

同性婚を求めている人も、夫婦別姓を求めている人も、それ以外の選択肢の創造は求めていません。大元の制度が変わらない限り、特有の不便さは残り、それよりも深刻なのが、元にある差別的な構造が維持されるままだということです。

しかもその「別の制度」を当事者ではないマジョリティー側が提示しているというのも問題点です。

通名使用の普及も、事実婚制度の充実化も、それによって利益が得られる人はもちろんいます。そして「無いよりもマシ」なのもまた事実です。
しかし、私たちは「マシ」を求めているのではなく根本からの改善を求めているのです。

人々が求めているものとは別のものを提示し、「これで我慢しろ」という横柄さ。許されるべきではありません。

もしこれを読んでくださっている方々の中に「同性婚を導入せずに事実婚じゃだめなの?」「夫婦別姓じゃなくて通名使用でいいじゃない」と思っていた方には、今一度その主張の残忍性について考えてみてほしいです。

一早い現状の改善を願って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?