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「怒らない育児」を取り違えない「しつけ」の在り方

スーパーに買い物に行った時。
公園に娘と遊びに行った時。
幼稚園への送迎時。
うどん屋で昼食を摂っている時。

そんな時、目にする家族の「母親」というのは本当によく声を荒げているなと思う。

「ママから離れないでって言ったでしょ」
「お友達が先でしょ、順番守らないと帰るよ」
「さっさと帽子かぶってよ、先生待ってるでしょ」
「うどんこぼさずに食べなさいって言ってるでしょ」

そんな様子を見て娘は
「なんであのママあんなに怒ってるの」
と不思議そうにしている。

私は娘を怒らない。
まさに今流行りの「怒らない育児」「叱らない育児」ど真ん中で子育てをやる当事者である。

というのも、私自身が「怒る」「ヒステリック」が苦手なのだ。
あれは一種の感情爆発であり、発散である。

怒ると疲れるけど、どこかでスッキリする。
でも、感情的に怒った時のことを後で後悔しないことってないんじゃなかろうか。
「もっと冷静になればよかったな」
「なんかワアワア喚いてバカみたいだったな」
なんて後で頭を抱え己が恥ずかしくなったりして。

ということで元々気が長く、おっとりした自分の性格もあり、娘を育てて丸4年、彼女を怒ったことは一度もない。

ただ、そんな私が思うことには「怒らない育児」=「しつけがきちんとされていない」ではないということだ。

私は生粋の子供嫌いだ。
外食時にこちらをじーっと見てくる子供が昔から苦手だった。
電車の座席シートに靴で平気で上がる子供も嫌だった。
図書館でワアワア騒ぐ子供も苦手だし、スーパーを走り回る子供も嫌だった。

こどもだからと、人を嫌な気持ちにさせることが許されるわけがない。

そんな風に思わない人は山ほどいると思うが、自分はそうじゃなかった。
「子供は無邪気ねえ」と許すような優しい?視点が、私の中に無かった。
子供嫌いなのだ。子供が苦手だ。
そしてこれは、今だにそうだ。
世の中子供好きな人がいる一方で、苦手な人もいるのである。

スーパーの床に寝転がっている子を見て、以前ほどの嫌悪感は抱かなくなったが、その代わり「自分ならどういう声掛けをするだろうな」と思うようになった。

私は怒らない育児をしているからと言って、娘を甘やかしているとは思わないし、娘が我儘で自己中心的に育っているとも思わない。

「怒らない育児」について考えること、実践していることをここに記しておきたい。

その前に一点、気になる点を挙げるならば、私の子育て経験人数が1人だということである。
「怒らないで子育てしてこれるなんて、どうせ聞き分けの良い子なんでしょ」
と言われたら、もうどうしようもない。

ここには「怒らない育児」を実践するにあたり、私自身が日々どんな思考をし、子どもに対して声掛けをし、行動をしているか、ということを記していきたいと思う。

「怒る育児」を非難するものではない。

1、そもそも「しつけ」とは何か

令和2年、厚生労働省の「体罰等によらない子育ての推進に関する検討会」において、体罰と躾の違いが端的にしるされているようなのでリンクを貼る。

https://www.mhlw.go.jp/content/000598146.pdf


また、Wikipediaではこんな風に書かれている。

躾というと「教え込む」ニュアンスをそこに感じ取ることができるが、そもそも子供は「躾ける」べき対象なのだろうか。

犬や猫、その他動物と同じように「躾」をしなくては、人間の子供は社会的、常識的なものを理解し身につけることができないんだろうか。

私はそこがどうも腑に落ちない。
子供の理解力を侮りすぎではないか?
人間という生き物を侮りすぎてないか?

動物を育てているのではない。
人間を育てているのだ。
子供はモノを知らないだけで、大人が思うほどバカではないし、浅はかでもない。

「何度言ってもいうことを聞かない」
「何度言ってもわからない」
という状況があるならば、何か理由がそこにはある。
その理由に気づいてあげられたらと思う。

私の日々の中に「躾」の意識はほぼ無いように思う。
代わりに言葉を見つけるならば「導く」「教える」が割と近い。

他人から見れば「躾が届いている」になるかもしれないが、決して躾けているわけではない。
様々なことを導き教えた結果、彼女がきちんと状況判断し行動するようになった、が正しい。

2.ルールやマナーを教える時は、相手を宇宙人だと思って教える

ルールやマナーは人間が作り出したモノだ。
生まれて間もない子供の特徴として大人が認識するべきは

①教えてもらわないうちは、まっさらの状態であること
②ルールを意識し実践する経験を重ねることで定着していくこと
③ルールやマナーは山ほどあるので一度口で言われたくらいでは身につかないこと

があると思っている。

「導く」ことは「定着を見届ける」までがその過程だ。
ひとつひとつ教え、パターンを提示し、そのシーンに遭遇したら思い出させ、行動させ、その行動が正しいことを都度伝える。
シンプルに、これを繰り返すだけだ。
この過程全てが「手を引いて導く」行為だと思っている。

私は娘が生まれた時に「この子は私のお腹の中の宇宙から今この世界にやってきたばかりの宇宙人」と思うことにした。

生命が誕生し細胞分裂を繰り返し人になる過程が、宇宙から星が生まれる過程にそっくりだなあ、と思って感動したことからこのような思考になったのだが、案外この思考が私の育児には大きく影響している気がする。

この世界にはこういうルールやこういうマナーが存在するんですよ、という「紹介」的な意識で、娘には様々なことを教えてきた。

3.実例① 場の役割を教える

例えばスーパーで走らないようにするために私が1歳の娘に教えたのは、まず「場所には役割がある」ということである。
そんなことを1歳に言ったところで、と思われるかもしれないが、これを彼女はすんなり理解した。

私 「ばっばちゃん、今日はお買い物をしに行こう。どこにいく?お買い物するにはどこにいけばいいかな。公園?」
娘 「ちがう」
私 「じゃあ〜、科学館?」
娘 「ちがう」
私 「じゃあ〜、図書館かな?」
娘 「ちがーう!」
私 「そうだね。公園は何するところ?」
娘 「あそぶところ」
私 「科学館は?」
娘 「プラネットあるところ」
私 「図書館は?」
娘 「ほんよむところ」
私 「お買い物したい時はどこ行こうか」
娘 「スーパーだよ」
私 「そうだね。お買い物したい時はスーパーだった。教えてくれてありがとう。じゃあスーパーに行こう」

という会話をして家を出る。
スーパーの駐車場に着いたらこんな会話をした。

私 「スーパー着いたよ。お買い物しよう。今日はねえ。ばっばの好きなバナナ買うよ」
娘 「やったー!」
私 「ばっばちゃん、今日スーパーで気をつけて欲しいことがあるので聞いてください」
娘 「はーい」
私 「ばっばちゃん、スーパーは何するところですか」
娘 「お買い物するところ」
私 「そうだね。じゃあ図書館は?」
娘 「本読むところ」
私 「うんうん。そうそう。じゃあ公園は?」
娘 「あそぶところ」
私 「その通り。じゃあ質問です。ばっばちゃんは、スーパーで遊んだりジャンプしたり走ったりキャーキャー声を上げたりして良いと思いますか」
娘 「うーん...だめ?」
私 「そう。その通り。遊んだりジャンプしたり走っても良いところは?」
娘 「公園!」
私 「そうね。公園は走ったりジャンプしたりキャーキャー言ってあそぶための場所。図書館は?」
娘 「本読むとこ」
私 「そうだよね。本を読む場所は公園ではないよね。だからつまり?」
娘 「走らない」
私 「そうそう。今からスーパー行くけど、スーパーはお買い物する場所だから走ったりジャンプしたりしちゃだめだね。その代わりママと一緒にどのお野菜が美味しそうか、どんなお菓子を買うか、一緒に選ぼう。ばっばの食べるバナナをばっばが選んでくれる?」
娘 「はーい!」
私 「その後一緒に公園でピクニックしよう。公園ではたくさん走って良いからね」
娘 「やったー!ピクニック!」

ここまでが下準備である。
この後スーパーでは一緒に「買うもの」を選ぶ。
走り出しそうになったら
「あれ?ここはどこ?スーパーだよ」
と言えば
「そうだった」
と走るのをやめる。

買い物を終えたら
「ちゃんとスーパーでお買い物ができたね。ばっばが手伝ってくれたからママすごく助かった。ばっばが走ったり遊んだりしなかったから、ちゃんと買うものじっくり選べたよ。ありがとう。またお買い物一緒にいこうね」
である。

この流れを次回の買い物時に覚えていなかったら、また同じやり取りをする。
面倒臭いようだが、相手は何も知らない宇宙人なのだから、ここまで懇切丁寧に扱うのが良いだろう。

これをやると、我が家の宇宙人さんは、科学館のプラネタリウムでは喋らないとか、図書館では児童室でも静かに過ごすとか、飲食店で食事が来るまではじっとして待つとか椅子には立たないとか、そういうこともわざわざ声を荒げて怒らずとも、関連づけて分かってくれた。
場の役割と役割に準じた行動パターンをしっかり理解したのだ。

スーパーの歩き方は「走らない」「遊ばない」だけではなく、商品にむやみに触らないことやカートを押す人に注意すること、他の人が品物を見ていたら気遣い行動することなど教えるべきことはたくさんあるが、その辺りは今現在進行形で教えている。

4.実例②順番を守ることを教える

これは本当に毎度毎度、私自身の心も娘の心もザラつくのであるが、これをきちんとできる子供はかなり少ない。

娘より大きい子供であればあるほど、これをキチンとしない。

親が見ていて指示をしていればまだ良いが、それ以前に親が指示をしないと順番を守れないというのは何なのかと、子供嫌いな私は心底うんざりしてしまう。

そもそも周りの大人が「順番は守りなさい」だけを教えているからこうなるのではないか。
大体何故順番を守らないといけないのか、おそらく子供の方は分かっていないのである。

マナーやルールにはそれを破った時に困る人間や嫌な気持ちをする人間が存在する。
そうしないために互いを尊重していくその在り方がマナーやルールであるし、一般的な常識になっている。
「人間らしい」相互理解の視点をきちんと教えてあげるのが、宇宙人には優しいのではなかろうか。
相手は機械ではないし動物でもない。
柔軟な思考力があるのである。
ダメなことはダメ、と教えるだけでなく、なぜダメなのかまでしっかり教えてあげると、宇宙人は「なるほど、人間界はこんな感じの価値観で生きていくのか」と分かってくれる気がする。

「互いに尊重する心」を理解すると、順番を守ることだけでなく臨機応変に「譲る」ことも覚える。

夕方の公園、滑り台の階段の上。
まだ2歳になったばかりで階段を昇るスピードが遅く、娘の後ろに小学生のお姉ちゃんが続いていた時、娘はその様子を振り返り見て
「お先にどうぞ」
と言った。

「自分の気持ちが一番大事。でも、自分じゃない人の気持ちを自分の気持ちより大切にしてあげたいな、と思った時はそうしても良い。それはあなたの中にある優しい気持ちだから。それも素敵なことだよ」
と教えた後だった。

5、教えるときは「思考する」隙間を大切にする

実例で挙げたようなスーパーでは走らない、を教えるとき、単純に「スーパーでは走りません」というような1→1の教え方ではなく、場の役割について考えるように仕向けたように、その入り口を少し大きくする。
そうすると日々の何気ない会話の中で同じようなシチュエーションを発生させやすいのだ。

「公園は何するところだったっけ?」と問うと「遊ぶところーっ!ママ、遊ぼーっ!」というやりとりが。
「図書館では?」と問うと「しーっだよね。走らない、だね」というやりとり。
「水族館は?」と問うと「うーん。お魚を見るところだから走っちゃダメだけど。人がいなかったら少し走っていい?」みたいなやりとりを。
「道路で遊ぶのは?」と問うと「ダメ!車が通るから!」というやりとりを。

その都度簡単な声かけで「ついで問い」をすると、どれだけこれらのマナーが本人の中に定着しているかを確認することができる。
繰り返しこんな風に確認していくと「場の役割」を意識し、実際にその「場」に行った時に、声かけなくとも適した行動ができるようになる。

挨拶は大きな声で、ではなく
「挨拶は相手に伝わるようにすると良いよ。今のが良い挨拶だったかどうかはママの顔を見て判断するんじゃなく、相手のお顔を見てごらん。ニコニコ笑ってくれたら良い挨拶だったってことだよ。ばっばがニコニコなるような挨拶ってどんな挨拶かなあ。考えてみよ」
という風にやる。
人に挨拶をした後は
「今のは良い挨拶だったかな?今のおばあちゃん、どんな顔してた?」
と問いかける。

靴を脱ぐときは揃えて、ではなく
「次に靴を履く時どんな風になってたらスルッと履けるかなあ。考えてみて。そして靴を脱ぐ時はお靴が仲良しさんで置く方がきっと寂しくないと思うな」
である。

ファミレスで食事をとる時は
「ファミレスは何をする場所かな?みんな美味しいご飯を好きな人と食べてるね。ばっばはご飯食べてる時に知らない人にじーっと見られてたら気になる?どう?」
と問いかける。

声かけの時には一回必ず「どうするべきか」を考えさせる。
考える癖をつけることにも繋がるし、親に言われずともどう行動すべきか決める癖がつく。
周囲を見て、観察し、どう行動するか考え、慎重にしっかり行動させる。
それが癖づくまで、あっちの場、こっちの場で確認しつつ経験値を上げていく。
それが「導き」であり、私の「怒らない育児」の全てだ。

6、「何度言ってもダメ」の背景にあるものをきちんと把握する

勿論私だって人間である。
何度言ってもダメな時は、イラっとしたりカッとなることだって当たり前にある。
ただそれをどう相手に伝えるか、その出力には様々な方法があるし、イラっとした理由、カッとなる理由をしっかり見極めたい。
グッと堪え、一旦引き、その日の夜にしっかり考える時間をとる。

私が思うに「何度言ってもダメ」というシチュエーションの背景にはなんらかの理由がある。

子供の基本である「睡眠」「栄養」「遊び」をしっかり満足するまで与えてあげられているか、まずはここである。
ここが安定していないと、全く何にも入っていかない。
ここが充足している状態で、初めてスタート地点に立ったと思って日頃育児をすることにしている。

そして第二に「親の愛情を子供がしっかり感じられているか」というところもかなり重要だ。
ここが不足していると「かまってちゃんモード」になり、スイッチが色々と切り替わる。

駄々をこねてみたり、反抗してみたり、甘えてきたりとあらゆる手を使って、親の気を引きたがる。
そうなるとこちらが仕掛けたものも、どう受け取っているか、きちんと理解できているかが不透明になる。
大切なことは、本人の状態が良い時にストレートに教えてあげたい。

(私はおそらく毎日30回以上は「かわいいなあ、大好きだよ」を直接口にしスキンシップを行うようにしている。
どんなところが好きか、どんなところが魅力的か、どんなところを尊敬しているか、言葉で直接伝える。あとは「ちょっと我慢して」気が進まないいろんなことに付き合ってあげるように意識している)

何度言ってもダメ!となった時には
・睡眠時間
・栄養
・遊び
・愛情
が満足に与えてあげられているかを今一度確認する。

そして、それが揃った上でようやく考えるべきことが
・導き方が悪く混乱していないか
・本人の語彙力に沿った言葉選びをしているか
・本人の理解力に沿って導いているか
・本人の想像力に沿ったアプローチをしているか
(想像力がしっかり備わったな、と思ったのは我が家の場合は3歳だった。そこまでは基本的に相手の立場に立つ、ということは場合によっては難しい時があった)
・あれこれ一度に詰め込んでいないか
ということだ。

子供の状況や成長に応じて、言い方や導き方を変えなくてはならないが、子供の語彙力、理解力、想像力はしっかり把握しておくと色々やりやすいなと思う。
子供の語彙力、理解力、想像力は日頃から意識して確認することにしている。
(この確認方法はいつか記事にするのも面白いかもしれない。結構細かく分析している)

7、まとめ

我が家の「怒らない育児」は、言葉を変えれば「丁寧に考えさせ教え経験させ定着するところまで見守る」育児だと言って良いと思う。

「何度言ってもわからない」状況になればその原因を探し、原因を突き止め、それを改善してから同じアプローチをする。
忍耐強く行わないといけないので面倒臭くもあるが、案外子供は吸収力があるので付き合っていると楽しいものである。

それに「怒らないで良い」というのは大変楽だし、こちらにとってもストレスがない。
怒るのが苦手な方はおそらく沢山いらっしゃると思うので、我が家の「怒らない育児」の在り方が、少しでも、どこかのどなたかのお役に立てれば嬉しい。




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