大学入試以後の英語学習2.2

非・一般常識というもの

日常会話に反映される「一般常識」ですが、この一般常識なるものについては、やや補足説明が必要でしょう。

たとえば、次の文を理解するには(どうでもいいかもしれない)常識が必要です。

たかみなとカツ丼を食べたら意外といけた。

AKB48 のファンの方々にとっては、どうでもよくない常識かもしれませんが、AKB48の歴代の人物録を知らない人(たとえば日本語学習者=留学生)がこの文を読むと「たかみな」は食材だと考えます。カツ丼の脇に添えられたお漬物の類でしょうか。高菜の仲間かなにかに聞こえるのです。

ファンの方々にとっては常識でも、「たかみな」は一般常識とは言えません。その証拠に「たかみな」という言葉が、日本語検定や企業の入社試験の一般常識テストで出題されることはないでしょう。

そういう意味では一般常識ではありませんが、「たかみな」は医学の世界の「特殊常識=専門常識」のようなものでもありません。この文の意味を理解できる人はAKB48のファンだけには止まりません。(おそらく60代以上ではかなり減るものの)かなりの割合の日本人がこの文を正しく理解可能だと思います。

この種の、一般常識ではないけれど、特殊常識(=専門常識)でもないものを「非・一般常識」と呼んでおきます。この「非・一般常識」は日常会話ではけっこう必要なものです。

共同理解と一般常識

もうひとつ例をあげましょう。今度は一般常識のお話しです。

〔状況〕

武道の世界ではずっとコロナ禍で公認試合がなかったために、入門から現在に至るまで昇段の機会のなかった選手がたくさんいます。昇段はしていませんが稽古は続けているので、技量は高くなっていて、3年前とくらべるとものすごく強くなっている。なのに段位だけは元のまま。

そこで、こんな会話が繰り広げられます。

「最近は三段が初段にやられるなんていう下剋上がよくあるなあ。」
「ああ、初段詐欺というやつだね。」

この「初段詐欺というやつだね」は「初段詐欺」という行為に対してネガティブな評価を下しているわけではありません。「たしかに、そうだね」と相手の発言に対する同意を示す用法で使われています。

詐欺は厳然とした犯罪ですが、「初段詐欺」(初段が三段を破る)行為自体は悪いことではありません。それなのに詐欺という言葉を使うのはなぜなのでしょう?

これは、コロナ禍のせいで段位と実力が乖離してしまい、一種の混乱状況になっているのを踏まえて、詐欺というネガティブな意味をもつ言葉を使って「下剋上だなんて困ったものだね」というのをユーモアも混じえて言っているのだと考えられます。

しかし、この会話に先行して記したような〔状況〕の理解がない人には、この「初段詐欺」ということばのもつニュアンスは伝わりにくい可能性もあります。

たとえ伝わっても、「なんとなくわかる」といった感じの伝わり方にとどまるかもしれません。ことによるとネガティブな意味合い(たとえば非難の気持ち)が強く込められていると誤解してしまう人もいるかもしれません。

一方、「下剋上」のほうはどうでしょうか? 恐らく誤解されません。下剋上は日本史上の概念ですが、上の会話のように現代では国一揆や戦国時代と無関係の文脈でも使われます。しかも、それでも意味は誤解なく伝わります。それは、義務教育の間に社会科で習うために、一般常識として確立された共同理解があるからです。

一般常識の偏り

とはいえ、義務教育の間に習う事項はすべて一般常識と呼ばれるかというと、現実にはそうでもありませんね。義務教育で習うことは国民の常識であるはずですが、それはタテマエ。たとえば「10%の坂」と「10度の傾斜面」がどう違うのかわかっていない人はいっぱいいます。2023が7の倍数だと瞬時にわかる小学生は山ほどいますが、わからない大人も山ほどいます。

習ったことをすべて日常的に使って暮らしている人は少数派なので、結果として「一般常識」と呼ばれているものにはムラというか、人によって偏りが生じます。

たとえば、織田信長はどうでしょうか? 日本で教育を受けた人なら、さすがに織田信長は知っているでしょう。日常会話にこの名前が出てきても、それなりの文脈ならなにも不自然には聞こえません。今ならキムタク効果でさしずめ岐阜県あたりでは、この名前の登場頻度は爆上がりしているかもしれません。

しかし、プラトンはどうでしょうか? この名も学校で習うのですが、日常会話にこの名前が出てくることは希少でしょう。学食での会話に『テアイテトス』の一節をさらっと挟んでくるなんて大学生は、きっと学生時代の杉下右京くらいのものです。(笑)

義務教育で習うことは共同理解の基準に一応はなるのですが、あくまで「一応は」であって、実際にはそのうちの限定された一部が「一般常識」になっています。そして、日常会話にはその「限定的一般常識」と「非・一般常識」が重なりながら登場してくるのです。

医師どうしがオペ室で会話するなら専門用語だけのほうが正確簡潔でいいのでしょうが、診察室で患者と会話するときには専門用語の使用頻度はむしろ最小限にするべきでしょう。難しい説明をわかりやすくするために色々なたとえも使うでしょう。広い意味での「限定された一般常識」と「非・一般常識」がそれを補うのです。

最小限の知識で会話は成り立つ?

これを言葉の面から見てみましょう。ある語と別の語が結びつくとか、結びつかないというコロケーション判断というものがあります。

次の a と b をくらべてみて下さい。

 a. 年寄りの冷水
 b. 年寄りの熱湯

a は意味がわかりますが、b は何が言いたいのか意味不明です。「年寄り+熱湯」は理解できない「おかしなコロケーション」です。

こうした判断は日常会話の中で耳にする用法が基準となります。そして、それが基準となって、新しいコロケーション(たとえば「初段+詐欺」)も生まれます。今までになかったコロケーションでも誤りとは認識されず、状況さえ共有されていればちゃんと通じるわけです。

人間は普通に暮らして、普通に日常会話をしている中で、この判断基準となる用法を少しずつ吸収していきます。その年月の中で(年齢なりの)自然な会話ができるようになるわけです。

医学部生が英語を学ぶ場合も同じです。医療で必要な専門用語は英語で医学書を読めば身につきます。また自然科学系の論文を積極的に読みためていけば、化学・生物学などの用語法も身につくでしょう。実験やその検証に使われる用語法もそうした論文を読めば身につきます。しかし、そうしたテクニカル・タームを最終的に載せるプラットフォームは日常言語であり、その吸収にはそれなりの年月を要します。

そして、この日常言語というシロモノ。必要最小限で終わらないというところが曲者で、さまざまな比喩や屈折表現が含まれます。

ビジネスでとりあえず用件を片付けられればそれでいいというのであれば、こういうメンドクサイことは考えなくてもいいのですが、告白した相手からのメールでの返事にひとこと「良いお友達でいましょう」とあっても、歓喜に跳び上がる人にならないようにするには、このメンドクサイこととお付き合いしなくてはなりません。

私の友人や同僚には外国人(といっても、英語母語話者)が多いのですが、彼らがいつも困っているのは日本での医療機関の受診のことです。子供が高熱を出した時にどこの医療機関に連れていけばいいのか、それを見つけ出すのも大変だし、頑張ってなんとか英語の話せる医師を探し出して受診しても、全然安心できない。「医学的に必要な最小限のことしか説明してくれない」からです。難しい病気なのか、そうではないのか。親はどういう心構えでいればいいのか、そういう説明もない。保険診療になるか自費診療になるかといった説明もない。

日本人なら専門医の資格をもつ医師のクリニックを探して受診します(私は少なくとも指導医を探します)が、彼らはそうもいかないので、そもそも受診先の医療サービスの質が低くてもそれに甘んじなければならない。あらゆる面で不安だらけのようです。

そんなことも見聞きしているので、医学部に進学する方が英語学習をするとしても、先に述べたメンドクサイことと気長にお付き合いするつもりがないと、学んだ英語が実際に医療サービス業の世界で役に立つのかどうか、私には少々疑問なのです。

ちなみに、英語資格試験対策だとかビジネスでの簡単な会話に特化すれば、必要最小限の語彙や文法にかぎって学ぶのが効率的です。そういう効率主義の苦行の積み重ねの道も、この国ではひとつの正義であることは理解していますが、そもそもテストというもので「測定できる言語能力」は範囲に限りがあるのです。

本来の意味の「人間の普通のやりとり」はテストで測れるよりもはるかに豊かなものです。話しぶりがもたらす安心感や、恋の駆け引きのうまさなんてのは測定できるはずもなさそうです。しかし、日常生活では文法の正確さよりも、そっちの方が大事だったりするのはご理解いただけるのではないかと思います。

はい、迂回しての話はここまで。(長すぎる!)

次回は、動機の問題について掘り下げてお話ししようと思います。

AI翻訳もある時代にわざわざ英語を学ぶ意味はあるのでしょうか? そして、そんなことを考えることが英語学習の上で何か意味があるのでしょうか?

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