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心動かせて生きる

昔は、確実に「正解不正解」の中で生きていた。

とにかく、正解を目指して努力することが正しい。
不正解=落伍、絶対回避しなくてはならない。

そんなことに心底、必死だった。

何が正解で何が不正解かということに、疑問を抱くことすらなく
ただただ与えたれた「正解不正解」の中で、必死に頑張った。

でもこれって一種の、洗脳?
皆一様に決められた制度の中で、同様に生きるって。

そもそも正解って何?
不正解って何?

その定義って一体、何なんだ?

誰が決めたの?
何に依るの?

今にして思うと、すごく変なこと。

だけど、こんな制度の中で、ずっと生きてきたから。

いつしか、失敗や間違いは物凄く忌み嫌うべきものとなった。
人生の落伍者になる訳にはいかなかった。

その世界の中、私は、正解が出せない自分を責め続けた。

正解になろうと努力して。努力して。努力して。
努力で何とかしていた。でも。

いつしか努力だけではどうにもならくなった。

苦しくて苦しくて苦しくて。


それでそこから這い出すしかなかった。


這い出してみると、世界は変わった。


そこにあったのは、失敗でも間違いでもなく。

ただそれをやった、結果に過ぎなくて。

体験となって、自分の血肉になる。

そういうことでしかなかった。


世の中は安易に、ジャッジをしたがる。

何でも、それが成功か失敗かの枠に入れて決めたがる。

お金が儲かれば成功?
人が集まれば成功?

でもそれが得られなかったとしても。

もっともっと、自分を満たすものがあるって分かったんだよ。

それは「心が動く」ということ。

心の動きを感じて、自分がそこに反応するということ。

心が動くと、さまざまな感情を味わうことになる。

感動する。
感激する。

言葉では書ききれない、さまざまな体験も体感も。

それを味わうことこそ、生きる醍醐味じゃないのかな。


まだまだ、味わいたい。

まだまだ、見てみたい。


自分の心。

人の心も。

人間を味わい尽くしたい。


人間は深い、ものすごく深い。


単純に正解か不正解かなんて
浅い部分でジャッジできるほど、薄っぺらな存在じゃない。

だから、


洗脳されない。

思考で奪われない。


この自分の中にある、味わい深さを感じる機能は、私だけのもの。

もっともっと、もっともっと、味わいながら生きる。


心動かせて生きる。


それ以上の望みは、きっと他にない。


心動かせて生きる。


それが私の豊かさの源なんだ。

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