木漏れ日
社会は、私にとって余りにも複雑で、生きていくことが辛くて仕方がない。
この複雑な社会の中で、私は何を為せばよいのか。
規範意識や、自己嫌悪や、私はそれらを更に複雑に考え、何を為せばよいのか分からなくなってしまう。
自身の幸せも分からず、目標も分からず、ただ立ちすくみ、目先の感情にのみ支配され、また勇気を失い、どう生きれば救われるのか、私は幸せになれるのか。
こうした思考もまた幼稚なものなのだと自身を傷付け、ホメオスタシスの中に閉じこもる。
いや、それ以前の行動が私を傷付けていたのかもしれない。
私は勇気をずっと失い続け、どこまでも堕ちてゆく。
そんな私を捕まえてくれるのはホールデンか。
確かに、インチキだと社会に目を瞑ってしまっても生きていけるのかもしれない。
しかしそれは、本当に私が望んだ生なのか。いや、そもそも望んだ生とは何だったのか。
私が望むのは、ただ穏やかな生だ。
心が一切の執着から解き放たれ、軽やかに世界との相互作用を楽しむ。
そんな生だ。
そう。いま想像している、その穏やかさだ。
川の流れに身を浸し、ただ水音と蝉の声が聴こえる。
私の体温は下流へと滲み出し、上流からの冷たい水が身体を揺らす。
木漏れ日は葉の動きにあわせてキラキラと輝き、流れ行く雲は私に陰を落とす。
私はいま、偶発した自己複製子の階層的発展という奇跡により生じているこの親切な社会で、命の危険から私を守ってくれている人工物の中に身を置いている。
そんな今、この瞬間から、私は自然へと溶け出せるのかもしれない。
縁起の結節点としての私は、しかし私という場の一人称性により生じる苦しみは、それらを我から手放すことで、確かに穏やかになる。
社会通念や規範意識により抑制され見放され続けてきた内臓感覚を、或いはその反応特性を、或いはプライアを、現象として見つめることで手放すのだ。
優しさとは、このようにただ注意を向けることなのかもしれない。
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