見出し画像

【連作短編】とおくでほえる/#5 映らない

わかって欲しいのにわかったフリはして欲しくない。見つけて欲しいのに見抜かれたくない。そんなわがままな自分が惨めで仕方ないんだ。

 家の玄関を出た私は、気づいたら走っていた。息が詰まってしょうがなかった。とにかく早く家から遠ざかりたくて、私は厚底のローファーをバタバタいわせながら走る。最初の角を曲がってからようやく足を止め、ゆっくりと息を吸って、吐いた。吐いて、吐いて、吐き出した。胸の奥に沈んだかたまりを全部ぶちまけてしまうように。

 杏は嫌いだ。杏の目が、嫌いだ。なんでも見通しているとでもいうようなその目線が。かわいそう、って声が聞こえてくるんだ。ふざけないでよ、わかるわけがない。私の本当の気持ちとかいうやつがあるとしても、真っ直ぐで一点の曇りだって知らないようなあの子の瞳に、そんな単純に映ってたまるか。

 大袈裟に肩で息をしていたら、なんか色々バカバカしくなってきちゃって、私は道端にゆっくりしゃがみこんだ。ヘッドフォンをした男の人が道の反対側を通り過ぎ、変なものを見るみたいな目で私をチラ見して去っていく。どうでもいい。太陽はとっくにごちゃごちゃした建物の向こうに沈み、あたりは怪しげに薄暗い、風が寒い。上着を持ってくればよかったけど、家には戻りたくないから、我慢する。

 私はずり落ちてしまっていたトートバッグを肩にかけなおした。それから両足に力を込めて立ち上がり、再び歩き出す。ちょっと早歩きしないと待ち合わせの時間に遅れてしまう。健二さんは多分、人を待たせたりとか、絶対にしないタイプの人だから。目が回るような人と時間の流れを、まるで魔法使いみたいに操って、自分の味方につけてしまう。そうやってもう一度、見つけてもらわなきゃいけない。自分でも知らないまま世界に溶け込んでしまいそうな私のこと。

 見つけてもらえるだろうか。冷え込んできた風に巻き上げられてはためく制服のスカートの裾を、ぎゅっと握る。それともこの大嫌いで安全な鎧に、また私はころされるのだろうか。

 そうだ、“三浦花“はこの鎧にころされた。
 高校生のミウラハナ。優等生のミウラハナ。学年四位のミウラハナ。
 あんたたちが見てるのは私じゃないんだよ、馬鹿。親も先生もみんな。この制服を破り捨てたら私のカチってあるんだろうか?破り捨ててみようか。だけどこの服に包まれた体はぬくぬく暖かいから、多分私はこの先も実体のないミウラハナでしょう。そういう自分が、一番馬鹿。

 めまいがする。誰か私に聞こえるように名前を呼んでよ。いつもみたいに花ちゃん、って呼んで欲しくて、その声の持ち主を求めて私は懸命に歩く。重くて淀んだ空気をかき分けて。

✳︎

 健二さんに声をかけられた日、私は真っ白なオフショルダーのニットを着ていた。初めて着る、オフショルダー。両肩が冷たい風にさらされてすうっとして、その感触が体の奥まで伝わって私の心臓はとくとく音を刻んでいた。

 多分、私がころされたのは、自分が臆病なせいだった。
 周りの期待に応えてさえいれば、私はいつだって日の当たる場所に置いてもらえた。それにだらだら甘やかされるまま生きてきたのは、怖かったから。本当の自分が鎧の下からほんのちょっとはみ出てしまった時に、優しかった相手の目が一瞬で、見たことのない冷たさに変わり突き放してくることを恐れたから。呆気なく切り離される瞬間の絶望が、私の背中にいつもぴったり寄り添っている。ひりひり痛くて、だけどそれは焦げてしまいそうなほど魅惑的で。

 いつの間にか私は家にいることが苦痛でたまらなくなっていた。休日には、なるべく早く家を出てカフェやワーキングスペースの片隅で時間を潰した。それから少しずつ、意味のない抵抗をしようとした。バイトは禁止されていたので、毎月のお小遣いを節約して貯めたお金で服やコスメを少しずつ買った。

 あの日、人気のショップの一番目立つところに飾られていた新作ニットは肩が大きくあいたオフショルダーだった。ここにもし親がいたなら?硬さと冷たさを薄い膜の裏に潜ませた目で私を一瞥するだけで、私がこの服を買うことをやめさせるだろう。そう思った私は気づいたらニットをレジまで持って行っていた。想像の二倍した代金を震えながら払って、タグをその場で切ってもらい、駅のトイレで着替えて外に出た。ショーウィンドウに映る私は私じゃないみたいだった。いいじゃん、と思った。

 私はドキドキしていた。親に隠れて好きなことをしていたからじゃなくて、ただ初めて感じる確かな感触が体の中心に伝わって、それがなんだか慣れなくて、静かな興奮が心臓から送られて身体中を巡った。だから健二さんから声をかけられた時、驚いて勢いよく振り返った私は、相当変な顔をしていただろうなあと今になって思う。

 すみません、と控えめな声で私を呼び止めたのは、背の高い男の人だった。振り向いて最初に目に入ったのはその人のとんがったのどぼとけで、それで意味もなくどきりとして、あ、今大人の男の人が私を呼んだ。そんな事をぼんやりと考えたりした。丸い眼鏡をかけたその人は言った。新しくお店をオープンしたので、初回無料でカットさせていただいているんですが、いかがですか?健二さんは独立したばかりの美容師だった。腰をかがめて私をじっと覗き込んでいた彼の、どこか必死なその両目。

 行きます、ってアホみたいに即答していた。丸められた答案用紙みたいな私の自尊心と自我にはそれで十分だった。騒がしい人混みの中でこの人が私を見つけて呼んだ、それだけの事で、浅はかな私の心は救われたとか思ったんだ。もう一人の自分は外からそれを見ていた。会ったばかりの知らないその人に、すがりつくみたいに吸い込まれていく滑稽な自分が、笑えるくらい鮮明に見えていた。あんたも大概、惨めだよね。

 ーーほんと、惨め。
 わかってもらえる気がしたなら、全部見せられたはずなのに。私はまた怖がって、せっかく脱ぎ捨てた鎧を強引に着させられるんじゃないかって怯えて、健二さんは違うって思い込んでいたくて、嘘を、ついた。

 綺麗だなんて言うからだ。長い髪が、お洋服ととてもお似合いで、綺麗だったので。鏡越しに健二さんはそう言ってはにかんだ。営業がうまいからすぐに繁盛するよ、なんて心の中でわざとらしく言ってみてもダメ、もう遅い。救われました、お客様が来てくれて。こぼすみたいにそんな事、言うからだ。その時私がかろうじて握り続けていたチェーンは千切れた。背中から落下していく、快感が体の芯を突き抜けた。勝手にしてやる、

 あ、私大学生なんですけど。もうちょっと垢抜けたくて、髪染めてみたくて、なんか吹っ切れたので、明るくしてもらえませんか、中途半端じゃなくてすっごい、明るくーー

 こうして私の髪は、ギラギラに染まった。それと同時に反抗期のレッテルを手に入れ、手放したのは、優等生の肩書きと、親の期待。でも私が本当に欲しかったものは何一つ掴めないままで、だけど私だってわからないんだから、当たり前なんだよなあって。ムカつく、本当に。

✳︎

 待ち合わせ場所は駅前のベンチ。健二さんはまだ見当たらない。出遅れた割には、早く着いてしまったみたいだ。すっかり日が落ちた空は群青にミルクをこぼしたみたいな曖昧な色をしている。

 美容室以外で健二さんと会うのはこれで三回目だった。一回目は、初めてのカラーの後。私が染めるなんて言い出したおかげで予定にないブリーチをすることになり、帰りが遅くなったからって、美容室の隣にあるカフェでコーヒーとケーキを奢ってくれた。正直、何かが進展する予感は最初からしてた。連絡先を交換したのもその時で、それからメッセージのやりとりなんかもして、健二さんが私のことを名前で呼ぶようになったのも確か、そのへんだったと思う。二回目にご飯を食べた時、初めて直接花ちゃんって呼んでくれた健二さんは涼しい顔をしていた。でも私は子供だからもう心臓がハヤガネのように鳴ってて、それを必死に隠しながら食べる人気のスパイスカレーの味は全然わかんなくて何だか癪だった。

 そして三回目。今回は私が誘った。多分、今日が最後になる。くたびれたプリーツスカートの裾を、ぎゅっと握りしめる。制服。私の嘘を言葉もなく暴くもの。手のひらに爪が食い込んでキリキリと痛んだ。

 髪を染めた日、一瞬で冷えていった両親の目を思い出して苦しくなる。怒鳴られるのは覚悟していたから別に良くて、でもあの人たちは私に吐き出す隙を与えてくれなかった。理由すら聞いてくれなかった。内側だけを透明感のあるアッシュカラーに染めた私の新しい髪。それを呆れたようにバラバラいじり、全部染める勇気もないんでしょう、結局、とお母さんは言った。全部ブリーチすると傷んじゃうからね、インナーカラーがお洒落だと思うよ。優しく教えてくれた健二さんの声を思い出して、悔しくて泣いた。

 結局、私はいないのだ。健二さんが、そうっと掬い取って綺麗に染め上げてくれた、私のゴミみたいな自尊心は、大人たちの目には見えていないのだ。反抗?たったの二文字で片付けられるはずがない。どうして聞こえないんだろう。いい子にしても逆らっても、自分の勝手にしても、身にまとった薄っぺらい装飾品しか目に映してもらえないのは、どうしてなんだろう。笑える、私だけ必死みたいで。だから許してね、健二さんにすがること。優等生でも反抗期でもない三浦花が、健二さんの目には映るって確かめないと多分もう、無理。ただのお客様に過ぎないっていつか思い知らされてしっかり絶望するだろうけど、とりあえず今、救われていたいから。

 電車のブレーキと発車の音が聞こえる度に、人の波は満ち引きする。健二さんはまだ来ない。不安になって、トートバッグに片手をつっこんでまさぐった。それからやっと、気づいた。スマホを、忘れた。

 突然不安に包まれる。昨日の夜、確かに健二さんとやりとりしたはずだ。待ち合わせの時間も、今日行くレストランも、二人で話し合って決めたはずだ。はず、なのに。今ここにない文字の証拠は、つかんだと思ったら消えてしまう白昼夢のように実体がないような気がしてきて、私はベンチにへなへな座り込む。頭が妙に冷めていて、その分体の中心がドキドキ脈打っている。本当に夢だったら、どうしよう。

 その時だった。右の方から騒がしい靴音がした。思わず振り向くと、ものすごいスピードで走ってくる、男の人が見えた。トレンチコートをなびかせ、両手になぜかコーヒーの紙カップを握りしめ、背は高くて丸眼鏡をかけた、それはまぎれもなく、健二さん。

 それから信じられないことが起きた。健二さんはベンチに座り込む私がまるで見えていないかのように前を向いてダッシュし続け、それはもうすごいスピードで、マンガかってくらい華麗に、
ーー私の目の前を通り過ぎていった。

 しばらく魂が抜けたようにポカンとしていた。何が何だかわからなかった。ただ健二さんが嵐のように残していった風だけが残り、それは私の足元で行き場をなくし、名前も知らない花の残骸を転がした。

 ふと笑いが込み上げてきた。証明されちゃったなあ、と思った。私ってやっぱり、いなかったんだ。ハリボテで生きてきたのがバレちゃった。傷んだ毛先を乱暴に引っ張る。これも、この制服も、お飾りで、だけどそれがなきゃ、誰にも見つけてもらえない幽霊。もっと引っ張る。髪が抜けるくらい引っ張る。痛くて、涙が滲んだ。

 それから何秒、何分が過ぎたのか分からない。遠くの方にちいさな人影が見えた。視界がぼやけてよく見えないけれど、それが誰だかすぐわかる。腹が立つから、涙は拭わない。ほんと、ふざけないでよ。わかったふりしないでよ。全部わかってること、わかってるから、お願いだからそうやって見ないでよ。わかって欲しいのにわかったフリはして欲しくない。見つけて欲しいのに見抜かれたくない。そんなわがままな自分が惨めで仕方ないから、だからもう、ほっといてって、言ってんの。

 その人影はゆっくり近づいてきて、三メートルくらい離れたところで足を止める。ふうふう、と息を整えてから、まっすぐ届くまあるい声が、お姉ちゃん、と私を呼んだ。

 ベンチの上で、私は銅像みたいに動けない。肌寒い四月の風が、私の体から、さびた鎧を1枚1枚、さらっていく。剥がれていくことに焼け付くような怖さと脱力と、それから安堵を覚えながら、私はまだ、じっとしている。私の中心が現れるまで、じっとしている。

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。