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やがてマサラ #17 タイ僧院のよこしまな修行

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? 生い立ちから書き始めたこのエッセイ。だんだんカオスにまみれてきた感のある迷走……ではなく、瞑想の記録。

ベンからのメール

バナーラスのガンジス河沿いに召使いハウスを借り、日々を無為に過ごしていたある日、ジョグジャカルタで2か月ともに過ごしたベンがよこした一通のメール。

「ミキ、Retreatに行きなよ。静かに瞑想でもすれば道が開けるかもよ」

しばらく音沙汰がなかったと思ったら、ベンはタイ南部の僧院で10日間の瞑想修行をしていたというのです。

それは「Vipassana(ウィパサナ)」と呼ばれる瞑想の手法を取り入れた修行で、とてもピースフルな環境で素晴らしい体験だった、自分を見つめなおして新たなインスピレーションを得た、というようなことが書かれていました。「修行」は私の意訳で、こういうのはRetreat(リトリート:退避、退去、軍の撤退という意味)と英語では言うのだそうです。

それならば私も自分を見つめ直そうじゃないか! と即座に思ったわけでは全然なく、頭をよぎったのは「そんなところに修行にやって来る人のなかには、真面目で思慮深くて優しくて芸術を愛する素敵な男子もいるに違いない」という、藁にでもすがるような想い。

瞑想のなんたるかを著しく間違えたままに、年末年始の繁忙期をインド添乗に勤しみ多少の資金を得た私は再度バンコクへ。夜行列車に飛び乗り、着いた駅でピックアップトラックに拾ってもらい、ベンから聞いていた僧院にて、ほどなく10日間の瞑想修行が始まりました。2003年2月のことです。

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タイ僧院で瞑想修行

それは外国人向けのプログラムで、欧米人を中心に100人ほどの参加者がいました。朝4時起床、夜明け前にヨーガのクラスがあり、食事は午前と午後の2回の菜食、合間合間に僧侶による説法や瞑想とはなんぞやの講義、各自の瞑想タイム。

宿坊は窓のない小さな個室で、エアコンなし、硬いコンクリートのベッドに寝袋で寝て、トイレ・シャワーは共同。21時に消灯で、テレビやラジオの娯楽はありません。インターネットも電話もなく、つまり外界とは完全に遮断された施設です。

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特筆すべきは、このヴィパサナ修行、しゃべっちゃいけないんです。10日間、ひと言も。用事があるときは身ぶり手ぶりまたは筆談で、決して言葉を発してはいけない。参加者同士のおしゃべりももちろん禁止。

このルールがそうとうキツい参加者が少なからずいて、最終的には30人ほどが途中で離脱していたようです(イタリア人など。おしゃべりを禁じられたイタリア人はなんだか見ていて痛々しかった!)。

しかしながら私は、不毛な孤独に浸っていたバナーラスで数日間誰ともろくに口をきかないことなど普通にあったため、まったく違和感がありません。いつもは英語でまくしたてている欧米人たちが静かにそろそろと蠢いているのを観察するのは大層面白く、好みの男子がいないかと瞑想のフリをしてつぶさに観察することも可能でした。

邪念がわかないよう、食事の時間も瞑想の時間も男女は完全に距離をおいて着席するのですが、なんのなんの。遠目に眺める金髪碧眼男子たちのなんと美しいことでしょう。説法や講義は英語で行われるので当時の私の英語力では到底理解しきれるはずもなく、ますます観察に精が出ました。

リトリート会場は大自然に囲まれた広大な敷地にあり、朝に夕に陽光眩しく星空も月光も美しく、女子の入浴に開放された屋外の泥温泉などもあり、泥パックし放題です。

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食事は質素な菜食とはいえ、タイ料理をベースに丁寧につくられた穀物と野菜たっぷりのヘルシーごはん。朝は穀物がゆ、昼は野菜料理のビュッフェ。夕方から猛烈にお腹が空くのだけど、そのぶん頭がクリアにもなり、(よこしまな)思考ますます冴え渡る。誠に結構じゃありませんか。

瞑想で得たこと

鋭意瞑想の結果、分かったことがいくつかありました。

一に、美男子は緊張して正視できない。
二に、金髪碧眼でも皆が美しいわけではない。
三に、顔の美醜ではなく骨格の美しさや姿勢のよさに私は惹かれる。

……なにせ時間はたっぷりあるので、くだらない、いや崇高な思考が次から次へと浮かんでは消え、浮かんでは消え。僧侶は「瞑想とは」といろいろと言っていましたが、頭は空っぽにはならないしむしろ邪心、邪念、妄想の温床です。説法係のストイックな感じのイギリス人僧侶の頭の形がいいなあ惚れ惚れするなあとか、そんなことばかり考えておりました。

説法や瞑想の会場は、オープンエアの建屋だったりよく手入れされた庭だったり、どこもタイとは思えない涼しい風がよく通るところで、ほんとうに、ただ風に吹かれながらあれやこれや楽しく妄想しているだけで一日が過ぎていきました。残念ながら瞑想のなんたるかはさっぱりわからないままだったけれども、風や光や空気やふとした匂いや、灯りひとつない真の闇が気持ちいいなあと、そんな感覚は日を追うごとに鋭くなっていきます。

夜明け前のひんやり張り詰めた空気は格別で、お天道様の光が尊くて、風が気持ちよくて。健康的な食事と午後からの絶食で胃腸は快調だし、日々お腹はスリムになっていくし、露天の泥風呂でお肌はぴかぴかだし、話せないから煩わしい人付き合いはしなくていいし。修行、わりと最高です。

毎日数人ずつは離脱していったものの、数十名の修行仲間が朝の起床から就寝前の説法まで共に行動しています。言葉を交わすことはなくても、ふと微笑みあったり、ちょっとした身ぶり手ぶりのやりとりをしたり、言語がなくても人ってずいぶんと意思伝達ができるものなんだなということを知りました。

会話が許されないからこそ、あっちでニコニコ、こっちでニコニコ、実にピースフル。そのうちに、なんとなく気が合いそうな、いつも同じような場所で講義を聞いたり瞑想したりする定番グループのような顔ぶれもできてきました。つくづく人間というのは群れる生き物です。

外界から一切遮断されたピースフルな雰囲気の中に数日いたら、いくら不純な私でも時々は真面目に己を見つめ直したりもし始めました。折り返し地点の5日目くらいからでしょうか。2、3日ではこういう心の変化にまでは至らない気がするので、10日間という期間には意味があるのでしょう。

記憶の整理と上書きと

アンナプルナのベースキャンプ手前の真っ白な世界で遭難しかけたこと。キリマンジャロの雄大な雲海に登る朝日。落ちていきそうだったラダックの青い空。満月の夜に舞い踊るポプラの綿毛。キナウル・カイラース山を眺めながら寒さに凍えた夜。ジョグジャカルタの青白い月。

目を閉じて次々とそんな光景やできごとを思い出していたら、時々ふと「あれ、いまなんだか意識が一段階深かったかも」と奇妙な感覚にとらわれて、それに気づいた瞬間グワンと元に戻る、という意識の出入りを体験しました。いまに至るまで瞑想のなんたるかはちっともわかっていませんが、あの意識の出入り感はなにかきちんとした瞑想的なものにつながる感覚だったのかもしれません。

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それまで見てきた美しく恐ろしい光景。そのままなにもかも忘れてしまってもいいかな、風景の一部になってしまおうかななどという気分になって、夢見心地のまま魂があちらへ持っていかれそうな感覚。その持っていかれそうな感じと、そこからグワンと帰還する感じが、私はとてつもなく好きです。そういう瞬間に、生きてるんだなあ、と感じるから。

修行10日目の夜、裸電球の灯りの元で、修業中に感じたことや得たことを壇上に立つ人だけは口を開いて話してよいという会が執り行われました。修行に参加しようと思った理由、それぞれの身の上話。普通に見える人たちも、皆それぞれに重たい人生を抱え込んでいました。

時々ゲッコー(トカゲ的な爬虫類)がゲッコーゲッコーと鳴いて、いい風が吹き抜けて、なんとピースフルな夜だったことでしょう。

翌日、修行開始から11日目の朝。リーダーの終了の言葉とともに挙がる大歓声! 修業中に何度も微笑み合った人たちと抱き合って「名前聞いていい?」なんて初めて言葉を交わして。一緒に修行を乗り切った達成感もあり、それまで一切の会話がなかったのにすでに旧知の仲のよう。

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日本的な「言わなくても分かり合える」文化が希薄で「発言しないことは存在しないこと」という欧米的、そしてインド的でもある価値観を鑑みると、「発言しなかったのにお互い確かに存在していた」というのは特筆すべきことでした。

ベンとジョグジャカルタで過ごしていたとき「そのくらい分かってよ!」「そんなの言われなきゃわからないよ」という喧嘩を何度したことか。

参加者は三々五々、解散していきます。抱き合った面々、その場の勢いで「じゃあこのまま徒党を組んで島に行こうぜ」となり、男女混合、国籍もバラバラの7、8人で僧院を出発、ダイビングで有名なパンガン島に向かいました。

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タバコは吸えない酒は飲めない、そしてしゃべれない、という禁欲の10日間を過ごしたあとですよ。そりゃもう子どもの遠足みたいな大騒ぎです。島へ渡るフェリーの甲板で何度もプシュップシュッといい音が響きます(私は下戸ゆえコーラにて)。禁欲のあとの堕落、ああ、サイコーッ!

当時まだ手つかずの自然がたくさん残っていたパンガン島では、島の一番辺鄙な場所にあるビーチ近くに宿をとりました。それは崖の上に小さなバンガローが張り付くように点在する宿で、バンガローといえば聞こえはいいけれど、要するに掘っ立て小屋です。断崖絶壁の脇を登らないと自分のバンガローに辿り着けない代わり、眺めは最高の宿でした。

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宿の食堂は崖の下にあり、そこで集まっては昼はグダグダとくだらない話をしたり、夜は夜でロウソクの灯りのもとで、青臭い熱い語り合い。理想の伴侶とはとか、将来どんな人間になりたいかとか、まるで中学生のような。当初のわたしの「パートナーがほしい」という切なる願いは叶わなかったのですが(笑)、なんだかわりとそんなことはどうでもよくなっていたりしました。

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いま、たとえばマンションのベランダから見上げた空にまあるいお月様を見つけたり、雨上がりに土や緑の匂いを感じたり、風に季節の変化を感じたりする一瞬に、この修行中に同じような一瞬があったこと、そしてそのときにふと心が安らかになるような気がしたことを思い出します。そしてそんなちょっとしたきっかけで戻れる心の平安が、私にはとても大切です。

心に余裕がなくなることがあったら、目を閉じて、まぶたの裏にじりじりと照りつける太陽の光を感じた時間を思い出してみよう、かな。

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