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やがてマサラ #18 恋のツール・ド・フランス

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? 生い立ちから書き始めたこのエッセイ。この話を再掲すべきかとても迷いましたが、まあこれも人生のスパイスのひとつ。その後お互い「ごめんね」とメールで和解しておりますハイ。

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さてみなさん、実践役に立つ英会話のお時間ですよ。以下の会話の意味を考えていただきたく存じます。

"So, have you slept with her?"
"Not yet"

シチュエーションは、深夜の田舎道をひた走るクルマの中。助手席の険しい顔をした女が、憮然としながら運転する男になにか尋ねている場面です。

ライター仕事のためインドの家を借りたまま滞在していたバンコクにて、そのころ常宿にしていた宿で居合わせたフランス男が、ありとあらゆる甘言を弄して猛烈に私を口説いてきました。

レゲエ好きのドレッドヘアの野生児。フランス男という呼び方ですとほかのフランス紳士の皆さまに申し訳ないので、レゲ男とでも呼んでおきましょうか。

幸せはどこに落ちているの? 私は人生の迷子。好きとか嫌いとかそんなことよりも、隙間風しか吹かない心に虚しさばかりが募る日々、追いかけられる気分のよさに、うっかり足を踏み入れました。

とはいえこれは一時の気の迷い。「じゃあね!」と振り切ってバナーラスに戻ったら、レゲ男は召使ペントハウスにまで追いかけてきて、さらに情熱的に私を持ち上げるのですよ。

「ぼくの故郷は自然が豊かでとても美しいところ。オーガニックな農園をやっていて、野菜や果物を育てているんだ。きみに見せたい。両親にも会ってくれ」

いかにも野放図に育った風態の野生児がそんなことを言うとちょっと心が動いたりもします。種まきシーズンが来るからと先に帰国したレゲ男に言われるままに、レゲ男の住む南仏行きの航空券を買いました。

そのころはバンコクを拠点にバンコク発着の成田往復やインド往復の航空券を購入していました。週に一便しかないバングラデシュ航空のバンコク〜成田の往復1年オープン航空券が3万円程度。つまり日本に帰るときはいつも復路のバンコク行きが手元にあるという、LCCがなかった当時、裏技的に長期滞在者たちが使っていた手法でした。

南仏行き航空券を手配したのは、いつも使っていた代理店ではなくレゲ男が「ベリーグッド」と勧めた安宿街カオサン通りの代理店でしたが、あろうことか支払い後に夜逃げされ、航空券は未発券、丸損です。それでも再度航空券を買い直したのは、甘言と思いつつもしかしたら幸せの青い鳥が飛んでいるのかもしれないという、そろそろアラサーに差し掛かりつつあった私の焦りでもありました。

南仏の豊かな自然は美しゅうございました。地平線と一面のブドウ畑、そしてブドウ畑に沈む夕陽を見渡せるレゲ男の家は300年の歴史があるという風情ある建物。近所に住む両親にも歓待され、毎日近隣の豊かな農産物を堪能していたら、こんなところで土を触りながら暮らすのも悪くないなという気になってきます。

しかし。何日か過ごしたのち、レゲ男いわく「そろそろホテルに移ったら?」

あれだけ情熱の限り口説いていたくせに、だからこそ航空券代を騙し取られながらも遠路はるばるやってきたのに、なんでしょうか、それは。

そこで気づけばよかったのです。

村を離れ、一番近い街のホテルに投宿し、毎日電話で話せば"I love you"と締め括り、甘い雰囲気はまだ漂っています。ある日「今晩そっちに行ってもいい?」と聞きました。

答えは「えーと、今夜は用事があるから駄目だよダーリン」

その断り方が、さあそこの奥様、お分かりになりますでしょう、男がなにか隠しごとをしているときの、あのなんとも足元おぼつかない感じの口調。全世界共通ですのよ、あれは。

私はクルマの運転ができません。運転免許は持っているので、オートマ車ならなんとかなるやもしれません。街からレゲ男の村までは軽く60キロほど。レンタカー屋に行ったところマニュアル車しかなく「さてムッシュウ、運転のしかたを教えていただけるかしら」と切り出したら「お前には貸さん」と追い出されました。まあそうでしょうね、私がレンタカー屋でもそのように致します。

そこで市内観光用のレンタルサイクル屋へ行き自転車を一台、調達しまして。

出発、すでに夕方。地図を片手に60キロ。

夏でした。南仏の夏は夕暮れが21時半くらいとゆっくりです。車社会です、田舎道を走る自転車などいません。追い越していく車の窓から"Bon courage, Chinoise!"(いいぞがんばれ中国女子!)などと激励されながら、街道を走ります。ときはおりしもツール・ド・フランスの季節で、連日テレビで白熱の模様が放映されていました。

出発から4時間少々、山あり谷ありの起伏に富んだ道でしたが休憩もせず、われながら健脚です。ブドウ畑に沈んでいく夕陽を横目に眺めながらラストスパート、夜の帳が降りるころ、ようやく見覚えのあるレゲ男の村にゴール。

ドアをノックし出てきた時のレゲ男のうろたえた顔は、いまでもよく覚えています。

「ど、どうやってきたの」
「じ・て・ん・しゃ」

家の中には美味しそうな食べものの残り香。聴き覚えのある、低く流れる心地よい音楽。落とした照明。ふたつ並んだ空のワイングラス。楽しい夕餉はおそらくローストチキン。私なにも食べてない。

「どうしたの、だれ?」

まるでドラマのようにタイミングよく女子が顔を出しました。つい数日前まで私が開け閉めしていた寝室のドアから、金髪が。

「あちらはどなた様でしょうか」

尋ねますと、絵の勉強のために村に滞在しているカナダ人だそうでございます。そういう答えを聞きたいわけではございませんが。そういえばバンコクでは「きみの漆黒の髪はとても美しい。真珠のような輝きだ。金髪なんてもう流行らない、これこそアジアの神秘」とかなんとか、仰ってませんでしたっけ。

暴れたのは、後にも先にも、このときだけです。レゲ男が大事に育てていた苗のプランターをことごとくひっくり返し、棚にあった皿はすべて割り、怯えた金髪が奥の部屋に逃げても、手当たり次第にモノを投げ続けました。

「こういうことするならこっちを終わらせてからにしなさいよっ!」

アジア女はおしとやかで従順と仰っていたイメージを壊してしまいましたけども。

途中で金髪が警察に電話する声が聞こえました。フランスの田舎警察が夜更けの痴話喧嘩などで出動するわけがありません。なぜかそこは確信がありましたし(だってフランス人だもの)、仮に警察が来たとしたら自分のほうに味方してもらう自信もありました。

壊すものがなくなって一瞬息を整えましたら、身長190センチはあろうかという偉丈夫のレゲ男、私をヒョイと担ぎ上げ家を出て、自転車とともにクルマに放り込みました。

「ホテルへ送っていくから二度とくるな」
「あんたが勧めた旅行代理店、夜逃げしたのよ。イスラエル人が怒って大暴れしてた。私も航空券代を持っていかれたの。つきましてはオカネちょうだい」

レゲ男の財布からは300ユーロ。「こいつろくな男じゃないからやめておいたほうがいいよ、ところでオカネある?」と玄関先で様子をうかがっている金髪に尋ねましたら、「おそろしい女ね」という言葉とともに100ユーロ恵んでいただきました。フランス語は落第続きでしたが、こういうときは気持ちいいくらいに理解できます。

そして、冒頭の場面へ。覚えていますか、過去完了形には「完了/結果、継続、経験」の3つの意味がありましたね。「(たったいま)〜したばかりだ、(これまでずっと)〜してきた、(これまでに)〜したことがある」です。

「あのオンナと寝たの」
「いや、まだだ」

この場合は「完了/結果」の質問形でございます。コトは済んだのか済んでいないのか。こういう例文があると忘れませんね。

Because you interrupted us(なぜならきみが邪魔したから)とレゲ男は続けました。実に腹立たしい補足でした。

翌日、自転車を返しにいきますと、レンタルサイクル屋の気のいいおっちゃん、「この街はどうだった、楽しかったかいマドモワゼル」と聞いてくれます。

「ええとても。美しい街ですね、楽しかった」

恋のツール・ド・フランスは優勝ならず。二股かけるな浮気をするな。

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