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やがてマサラ #1 大三元の申し子

みなさんこんにちは。楽しいインド案内人アンジャリです。なぜ私はここまでインドに惹かれたのか? そんなことを訊かれるたびに、その理由はきっと生い立ちにまでさかのぼるのだろうなあと思っています。

昨年2020年の2月に日本経済新聞の『私の履歴書』を真似して書き始めた『やがてマサラ』というエッセイを、その後出てきた新たな写真なども加え再構成してみました。

生まれた街、家族

万緑や 初孫の名を 美樹とせむ

そんな美しい句を詠んでもらっておきながらなんですが。生まれたときにすでに頓狂だったのではないかと思います。

1974年5月3日、神奈川県茅ヶ崎市で、私は数学教師の父と音楽教師の母の元に生まれました。両親ともまだ若く、教師として市内の中学校で働き始めたばかりのころです。

「子どもはまだ早い、いらない」という母を「産んだら私が育ててあげるから」と説得したのは祖母だったそうです。血気盛んな父はよく校長に盾ついて校長室の机をひっくり返していたとか、いないとか。

税理士事務所を経営する祖父と専業主婦の祖母は、スープの冷めない距離に住んでいました。まだのどかだった海沿いの町のごく平均的な暮らしぶりの家庭だったと思います。

祖母の慈悲のおかげでどうやら抹殺されずに済んだ私は、しかしながらやはり少々間の抜けた生まれ方をしました。

麻雀の役満のはずみで

麻雀が好きだったという母が、その日、なんの巡り合わせか、役満の大三元をツモったそうで。大興奮に陥る母。出産予定日はまだ1か月先。

そのまま産気づき、あれよあれよという間に未熟児で生まれたのが私です。祖父は喜びのあまり句をしたためました。

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すぐ職場復帰した母に代わり、祖母は朝から晩まで付きっきりで私の世話をしました。祖母の溺愛は相当のものだったそうで、近所の保育園に入園させるとなったとき、毎日門の前で涙を流してのお別れだったとか。私はケロっとしていたそうですが。

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3歳でブラジルへ

3年後に弟が生まれた直後、父のブラジルへの赴任が決まりました。弟はまだあまりに幼いため祖父母の元に残り、両親と私だけがサンパウロに向かうことになりました。

空港での別れのことを話すとき、祖母は「今生の別れだと思った」と涙ながらに話していました。今よりもずっと外国が遠かった時代の地球の裏側ですから、分かるような気もします。

私はもちろん当時の記憶はありません。ただ、なぜこんな半生になったのかしらんと今日の自分を思うとき、麻雀で役満をツモった勢いで生まれたというのがすべての始まりだよなぁとつくづく思うのです。

自力で強運を掴みはしたけれど、それは予想外と予定外の連続でもあります。大三元の申し子ですから、ね……。

書き始めてからずっと、有名人でもなんでもない自分の話を書く意味はあるのか? と思い続けています。

ただ、祖父母も他界し、今では両親が賑やかな一族の祖父母となり、私自身も人生半ばをすぎました。人生後半戦を生きるにあたり、ここらで記憶の再編成をしておきたいなと思っています。

残りの人生もゆるく勝ち続けられたらいいな、ジャンジャンバリバリ。あ、それパチンコだった。

お付き合いいただけましたら幸いです。

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