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ミカの暗号:博士の普通の愛情

夕食の時、妻が家電量販店の大きな袋を指さして、ブック型のパソコンを買ったと言う。スマホを使い出したのもつい最近であるくらい、ネットには興味がなかったのに。

僕はネットでのマーケティングを仕事にしているので、テレビのニュースやバラエティ番組で出てくるネット用語を彼女に解説する役割だった。SNSはおろか、匿名掲示板での中傷などについてもどういうことなのか、最初から説明する必要があった。

それから、妻はパソコンで映画を観るようになった。僕のいくつかの映画配信サービスに妻もアクセスができるようにサブアカウントを設定した。この頃は今までとは違って、「『私の頭の中の消しゴム』を観て、泣いちゃった。韓流って興味がなかったけどあれを観てハマる理由がわかったわ」などと、よく映画の話をする。

ある金曜日の夜、僕が早く帰宅すると、妻はいなかった。スマホを見ると気づかなかった妻からのLINEメッセージが残っていた。

「今日は実家に帰ってくるね。明日の朝から妹夫婦と温泉に行くから」と書かれていた。テーブルには食事が用意されていたので、テレビを見ながら食べた。キッチンのカウンターに妻のパソコンが置いてある。見るのはまずいかなと思いながら開いてみた。スリープ状態から起動させるとパスワードの入力画面が出てきた。彼女の誕生日である「0515」を打ち込むとあっさり開いた。パスワードの意味がまったくわかっていない。

映画の配信サービスを開き、どんな映画を観ているかを調べた。いくつかの韓流映画が並んでいたが、その中にいわゆる不倫をテーマにした邦画や洋画が多く混ざっていることに気づく。僕は「やはり見なければよかった」と後悔した。妻が実家に帰っていると言ったことから順番にすべてが信じられなくなっていく。

歳が同じ彼女と僕は25歳で結婚した。特に何という波風も立たない夫婦の生活は12年目に入っている。石井くんという僕の同僚に紹介され、ミカは僕の目の前にあらわれた。物静かで落ち着きのある女性だなとしか思わなかった。僕は居酒屋を出るまで彼女とだけずっと話していた。その場に同席していたもう一人の女性が、僕の苦手なアメリカ西海岸タイプだったからという理由なんだけど。

その日から僕たちはメールでやりとりするようになり、なんとなくつきあい始めて、僕の部屋の契約更新のタイミングという色気のない理由で結婚を決めた。ふたりで部屋を借りて、同じ場所に住むようになってもつきあっている頃と何も変わらなかった。仲が悪いわけではない。いつも普通に会話はあるし、ケンカになることもなかった。

恋愛や結婚について語りたがるタイプの人はここで自信満々にこう言うだろう。「それって、実は危険信号なんだよ」と。そんなことはわかっている。波風が立たない毎日というのは、互いに何も求めていない悲しさの証拠だってことくらい、僕にだってわかっているのだ。

妻のブラウザを開き、ネットへのアクセス履歴を見てみた。今度こそ見てはいけないものを見たのだという確信があって、全身の血が下がっていくのを感じた。

「不倫」「出会い」「都内」「NTR」などという検索ワードが並んでいる。

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以前は「氏ね」と書かれたコメントをさして、「これ、死ね、の誤字だよね」と指摘したくらいネット用語を知らなかった彼女が打ち込んだものとは思えなかった。ちなみに「NTR」というのは「寝取られる」という意味のネット・スラングだそうだ。彼女が読んでいた女性向けの不倫体験談ページには、生々しい描写だらけの投稿が並んでいた。

検索ワードの中に「暗号」「ファイル」というのがあった。これは何だろうと思ったが、多分、僕に見られたくないファイルを暗号化しておくために調べたのではないかとわかった。ハードディスクの中にいくつもパスワードを必要とする「ミカ001」「ミカ005」などと名づけられたファイルを見つけた。どれも「0515」と入力しても開かない。

そのファイルには何が入っているのだろうか。僕ひとりのリビングルームは心臓の激しい鼓動が聞こえるくらい静かだった。

ミカが温泉から出て部屋に戻ると、妹の夫である茂夫が言う。「義姉さん、パスワードのヒントは残してきたの」「うん。残してきたよ。多分、気がつくと思う」茂夫はレンタルサーバーの会社を経営している。

「しかし、義姉さんも怖いイタズラを考えるよね。何の不満もない、いい旦那でしょう」「うん。でもあの人は何も起こらない平凡な日常を善だと思っているだけだから」

ミカは浴衣姿でビールを飲み始めた。「僕が入れ知恵をして義兄さんを騙したようで、気がとがめるよ」茂夫もグラスにビールを注いで飲み始める。「あの人、あれを見つけて私がどこかの誰かと浮気をしていると思い込むはず。本当にバカなんだから」「いや、男の人は誰だって不安なんだと思うよ。女性も同じだろうけど」

僕はミカのテキストファイルを見つけた。それはパスワードをメモしたものだった。これが初心者の限界なんだよと思った。そこに書かれた30くらいの文字列は、誕生日をパスワードに設定した妻とは別人である、と宣言しているようにも思えた。

暗号化ファイルが開く。どのフォルダにも同じテキストファイルがひとつだけ入っていた。

そこには、「ここまでたどり着いたのね。私のことを放っておくと本当にこういうことになるわよ ミカ」と書かれていた。

僕はカラダのチカラが抜けて、ソファに倒れ込む。見事に騙された。しかしミカがひとりでこんなことができるとは思えない。そうか。今日、妹夫婦と会っているというのがヒントだ。茂夫くんはネットオタクだから、彼が助言したに違いない。ミカと妹夫婦に何か仕返しをしてやりたいと思いながら、あまりの緊張感からか、そのままソファで寝てしまった。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。