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偽善とパンク:Anizine(無料記事)

いつも「何かをするときの心構え」を偉そうに書いているが、もしも若い頃の俺が読んだら「クソ偽善者か」と思うだろう。

パンクという音楽に代表されるように、若い頃は自分が知っている幼稚な世界の解釈で正当性を叫びたがる。でも大人になっていくにつれ、それは「生活というゲームのルール」を知らなかったゆえの浅はかさだったと気づく。なぜ世の中がそうなっているのかを知らないから反抗というポーズをとることができただけなのだ。親がどれほど自分を後回しにして子供のことを考えているかを知らないから、へたくそなギターを鳴らして「社会と戦っているごっこ」を演じる。

前にも書いたことがあると思うけど、暴走族だった女性に子供ができたときの話がある。ずっと泣いていた赤ちゃんをやっと寝かしつけたと思ったら大きなバイクの音で起きてしまい、また泣き出した。「ああ、私が若い頃にやっていたことはこういう迷惑だったんだ」と気づく、という話。

他人の痛みを事前に察知するのが想像力だ。彼女が今になって反省した、自分は悪いことをしていたと気づいた、というのはただ立場が変わっただけのことで、何も偉いことではない。

人間はひとりで生きているわけじゃないから、必ず毎日誰かと出会う。その関わりを「ないもの」とすることもできるし、「見えなかったけど厳然とそこにあるもの」と捉える人もいて、その違いは継続性にある。戦争のニュースを観た後だけ、あんな悲劇はあってはならない、と声高に言う人がいる。それは素直な感情なんだろうけど、あまりに無責任だしナイーブすぎる。

敏感な感受性は毎日それを発揮していたら傷ついて、磨り減って、死んでしまう。世界中のどこかで誰かが飢えて死んでいき、泣いている。しかし自分は好きなバンドのライブに行って美味しいスイーツを食べて家に帰ってくる。自分が置かれた境遇と、誰かの一秒一日の価値が違っていることに自覚的になりすぎたらみんなが修行僧のようになってしまう。だから「見ないふり」をすることは誰にだってあるのだ。

瞬間的に生まれた感情だけをもって「私には問題意識がある」「弱者に寄り添う」などといった、マリー・アントワネットが下々の恵まれない人々に投げかけるような言葉を発してはいけない。さらにそれを自分の利益のために使うのは言語道断だし、その発言を聞いた人が「感動した」などと言ってしまってもいけないのだ。

誰かに何かできることとできないことの葛藤に悩むことはあっても、それを(対価のある)感動のコンテンツに仕立て上げるのは罪悪である。

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俺は仕事で写真を撮ってお金をもらって生きていて、仕事ではない写真も毎日撮る。どちらも俺の写真だから自分の基準において倫理的に後ろめたいことがないように心がけている。これを見せたらウケるだろう、という邪念で誰かが失敗したところを撮ったりはしないし、ことさら時代遅れな場所を探して「レトロでいいね」と言って撮らないし、人の笑顔って素敵だななんて思って撮ったりもしない。

写真は相手を撮っているように見えて、実は自分がどこでカメラという暴力的な装置を持って立っているのかという場所を写すもので、ポジションの表明だ。

題材として「弱きもの、恵まれない環境の人」を扱うには継続性と献身が大前提になる。紛争地に何年も行って取材をしているカメラマンがいれば、自分が弱者を救うのだと言わんばかりの対外的なアピールをしながら、自分では一円も出さずにクラウドファンディングでお金を集めている人もいる。

ネットで『貧困』という文字を見ない日はない。もしかしたらこれは我々が昔思い描いていた(近代的な尺度からの)未開の地の貧困、災害や戦争による貧困とはまったく違う種類の貧困なのではないかと感じる。みんなが毎日会社に行って真面目に働いていても報われない。働いていてギリギリなのだから、それこそ病気になったり障害を持ったりシングルマザーになれば、それだけで誰もが「貧困」に陥る可能性がある。俺も同じだ。それでも人は生きていくべき場所で生きていく。

その姿をテーマパークのように見物したり写真を撮ったりすることは俺にはできないし、そんな下品な行為でギャランティをもらおうとは思わない。とても嫌なことを言うようだけど、嫌で嫌でたまらない仕事をして給料をもらうことと、自分が憧れて、やりたかった仕事で魂を売るのは意味が違う。

それをしたら若い頃の幼稚パンクな自分にすら申し訳が立たないんだから。

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Anizine

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。