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返信できないメール:Anizine

ある人との、やり取りが止まったメールがある。

自分の中でまだ消化しきれていないできごとなので具体的な内容についての言及を避けるために固有名詞ゼロで、わかりにくい一般論になってしまうことをお詫びしておく。

あるひとりの作家を知ることになった。その人が作っている作品のテーマは俺の好きなものだったので、人と作品のワンセットで興味を持った。彼女からメールをもらって、ヴェルニサージュに呼ばれた。「仕上げのニスを塗る」という意味の「ヴェルニサージュ」は、公開前の展示を知人や批評家たちだけが観るレセプションのことだ。

今回の作品は彼女が普段やっていることとは少し畑違いで、新たな表現ジャンルに踏み出したことになるようだ。だからある種の不安もあるはずで、作家本人では気づけない客観的な評価をして欲しかったのだと思う。そして会場で初めて彼女の作品を観ることになった。

こういうときにはどんな態度を取ったらいいのだろう、と途方に暮れた。

まず、技術的には問題のない仕上がりで長年似たジャンルで培ってきた能力が高いものだということも伝わった。だからこそと言っていいのかもしれないが、違うアウトプットの作品に仕上げた途端に目を覆いたくなるようなものになっていたのだ。精緻な筆致の肖像画家がそのデッサン力を駆使して死体を描いてしまったように思えた。デッサンがヘタだったら死体の恐ろしさは伝わらなかったはずだとも感じた。

その印象が俺ひとりのものでないと知ったのは、ヴェルニサージュに呼ばれた客の多くが「あからさまに不愉快な顔」をしてすぐに席を立ったからだ。ある程度のキャリアを積んでそれなりの結果を出してきた彼女が、目の前で会場からどんどん人が去って行く様をどう感じたのかはわからない。

なんとなく最後まで残ってしまった俺は、彼ら批評家たちの正しい厳しさと優しさを感じた。我々の日常を取り巻く「アートごっこ」の罪も自覚して反省した。このエピソードは日本で起こったことではない。アート・インダストリーの歴史と厳しさが日本とは比べものにならない外国での話だ。

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格式のある立派な会場に入った俺は、すぐに作家である彼女を見つけた。その佇まいが典型的な「作家を囲む集団」だったからだ。彼女は日本から一緒に来たと思われる関係者と話していたが、まずこれがよくない。外国のギャラリーで展示をしておいて、作家が内輪の人々とだけ固まって話している姿はプレゼンテーションとして最悪だ。

何かをギャラリーに観に来た人がヴェルニサージュで期待するのは、知らなかった作家の作品の素晴らしさに驚くことだろう。できれば俺も素直にそういう体験をしたかった。しかし大きな声で話している関係者は作家を褒め称え、ここで展示できたことに酔っている様子だった(関係者以外で日本語がわかるのは俺だけ)。俺のすぐ隣で作品を眺めていたふたりの言葉が聞こえてきた。英語だったからわかったその内容は、「このギャラリーにこんなつまらないものを日本から持って来やがって、あいつらナメてんのか」だった。

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Anizine

¥500 / 月

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。