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表紙は破って捨てたよ。

「消費する遊び」と、「創造する遊び」があって、このどちらが好きかによって生活のスタイルは決まっていく。

たとえば子どもにしても、絵を描くことが好きな子と、塗り絵が好きな子がいるよね。どちらが好きでもいいし優劣をつけるつもりはないんだけど、そこに「断絶」があるのだけは確かだと思っている。

白い紙を渡されるとすぐに絵を描き始める子は、塗り絵のように「誰かが用意してくれた下絵」が印刷された紙を面白いとは思わないだろう。反対に塗り絵が好きな子は、真っ白い紙を見ると手がかりがないから何も始められないことがある。

単純な例だけど、このふたつの指向性は大人になってもまったく変わらないし、たぶん途中から越境することはないんじゃないかと思っている。それは親の「教育」にも関係しているだろう。物心つかないうちに粘土で遊ぶのか、スマホのゲームをするのかで変わっていくだろう。だからといって英才教育じみたことばかりを推奨するわけじゃない。

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できあがった大人を見て、その二種類を見分ける遊びをすることがある。課題を渡されると正確にこなすタイプ、何もないところに何かを強引に作ろうとするタイプ。交わるところがひとつもないどころか、互いの立場を主張し合って対立することが多い。

俺は「ボンヤリする会」という、ただひたすらボンヤリと話す会をすることがある(最近やってないけど)。人が集まるときに「やるべき目的」があるのがとても苦手なのだ。目的を求めない人にだけ集まって欲しい。これは寂しさとも関係していて、同じ目的を持った人が集まらないと寂しい、というのは本来の集団の価値を損なうと思っている。共依存が始まるからだ。

俺は何も決まっていなくて、何も目的がなくて、何も見返りがない、生産性がないことが好きだから偏った立場で言うけど、もしも成し遂げたい何かの目的があるとしたら、それは一人で孤独にやる。多くの人のチカラを集めたいなら、「一人で孤独にやっている別の人」たちを呼ぶ。集団を作ることとこの違いは、わかるよね。

いくらサッカー日本代表が好きでスタジアムに行って応援していても、それはファンである。ピッチの上で、俺は孤独なキーパーで、お前は孤独なフォワードだ、という信頼関係については一生知ることがない。だからファンはファンの幸福だけを求めて観客席でビールを飲んでいればいい。

ただし、ただしだ。ファンが愛情のあまり、そのフェンスを乗り越えた瞬間に警備員はやって来る。入るな、と。「ずっと応援していたのに」と思うかもしれないけど、それは違う。元々ピッチと観客席は断絶した別の場所なのだ。チケットさえ買えば観客席には入れるが、サッカーが下手ならピッチに立つことはできない。

だから何かを消費する側の人は、創造する側に越境できない。塗り絵ばかりしていた人がある日、「俺の個性を認めて欲しい」と言うのは勘違いで、個性は個性担当の子が、ちいさい頃からやってきている。サッカーの練習はつらいし、嫌いだからやりたくない。でもヒーローインタビューだけ受けてみたいと言ってもムリなのだ。

先生が描いた、小学校の修学旅行の「しおり」のダサい表紙が気にくわなかったのでバリッと破り、自分が描いたモノに差し替えた俺が言っている。先生は俺の表紙を二度見していた。あの時はすまんかった。でも先生の絵は、我慢ならないほどヘタだったんだよ。

ロバート・ツルッパゲとの対話

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。