見出し画像

微差を競う戦い:写真の部屋

何かを創造する意味というのは、「それに触れた人がそれまでに感じたことのない価値と出会えること」だと思っています。簡単に「驚き」と言ってもいいかもしれません。

ですから驚きのない創造に価値はないと言えます。驚きを提供することは誰にでもできることではありません。科学で言えばわかりやすいと思いますが、地動説は、それまで天動説を信じていた人々が「ああ、地球の方が回っていたのか」と驚いたわけです。

創作者で言うと、今与えられているものに満足している人はここから脱落することになります。当時「腐った肉」と酷評されたルノワールの絵も今では古典になっていますが、教科書や美術館で観たそれらを敬愛して好きでいるならそれでもいいのです。絵画の歴史は印象派で止まっていても何も不都合はありませんが、なぜ印象派がそのとき新しい手法を生み出したのかと言えば、旧来の古典的な技法に満足できなかったからでしょう。

もうすでに我々が印象派から学ぶべきことはありません。時代が何度も更新されたからで、このようにまだ見ぬ世界への驚きを日々塗り替えていくのが創造です。そこで過去のものを過度に愛することが角を丸くするというマイナスの理由もわかると思います。温故知新の前半だけでは駄目なのです。

驚きを創造するには当然のことながら、旧知の事実を完璧に知っていることが前提になります。よく知られている方法では誰も驚かないので「よく知られた方法」はすべて知っている必要があります。それまでの歴史の積み重ねを知った上で、未踏の地を目指さないといけません。それができていないと、ナイツの漫才での「皆さん、アニメの巨匠で宮崎駿という人がいるのを知ってますか」というフレーズのように、無知である人があたかも何か発見をしたようなボケになってしまいます。

絵や彫刻などは脳で考えたものが直接物理的なアウトプットをするのでわかりやすいのですが、写真はそこにあるものを写し取るという意味において差を出すのが難しいものです。どちらかというと「微差を競う戦い」になっています。ただその微差を感じ取れないと時代の進行を理解できません。たとえばフィルム時代に写真の技術を習得した人の欠点があります。

ここから先は

1,027字 / 2画像

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。