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美しい共感:Anizine(無料記事)

俺が病気や障害、貧困などについてのコンテンツを作らない理由は、とてもシンプルで、それについての専門的な知見を持っていませんし、自分が病気であるような当事者性もないからです。

特に病気に関するデマや非科学的な発言などは、その情報を二次的にシェアするだけで危険で罪深いものですから、医師でもない人が何かを発言することには慎重にならないといけません。知識を持たないから問題に目をつぶって関わらないようにすると言っているわけではなく、俺は自分の専門の仕事をして得た自分のお金だけを使って、安全な方法で支援したいと思っています。

「弱者」という言葉は強者側の言葉なので使いませんが、明日にでも経済的に破綻する、すぐにでも病気が重篤化する可能性がある、といった立場の人に関わるのには覚悟が要ります。片手間の遊び気分ではできないし、それで自分が何かに役立ったと思うのも傲慢です。

自身も障害を持つ友人が「たとえ障害や病気を持った家族がいたとしても、本人は健康なわけだから、嫌になればいつでも逃げられる。いつまでも同じ場所にいなければいけない当事者の気持ちなどわからない」と言っていました。家族であってもそうなんですから、見知らぬ誰かに対して美しい共感など持てようはずがありません。その距離の遠さと虚しいほどの無力さを理解して行動できているかはとても大事です。

渋谷の仕事場の近くにはホームレスが多くいますし、知人にはシングルマザーがいて、コンビニには生活が厳しい外国人労働者がいるので、毎日あらゆる瞬間にそれを考えます。どんな瞬間にも「彼ら」と遠くから指をさすのではなく、「我々」と自分を含んで感じられなければ何もできません。それが富裕層の施しであってもいいだろうし、貧しい中からの100円の募金でもいい。自分がその立場にいたら大変だろうな、と思ってする行動はとても個人的なものですから、誰からも批評されるべきではありません。

しかしそれを「コンテンツにすること」には大きな隔たりがあります。芸能人がチャリティ番組に出演して多額のギャラをもらうようなもので、その瞬間だけ「弱きものに心を寄せる人」を演じてみせた出演料になってしまうからです。

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自分がしなければならないことは、自分の生活を維持するための収入を得ること、その結果として自分以外の人に使ってもらえる余分なお金を捻出することです。誰かのチカラになるなんて偉そうな感覚は自分にはありませんし、それは最初に言ったようにしかるべき資格と知識を持った人が立派にやってくれています。まずは自分の頭の上の蠅を追うこと。それができていない人には、他人を助ける真似事すらできません。

最近気になるのは、弱いものを助ける、と言っている人の言語感覚の鈍さです。平然と「助けてあげる」「してあげる」「寄り添う」などと言うのを見ると、ああ、この人は上の立場から施してやると思っているのだなと感じます。これは単なる言葉の用法だけではなく、行動の思考のあらわれです。むしろ善意を勘違いした差別に受け取れることがあります。

もし、玉置浩二さんがディナーショーの売り上げを寄付するとしたら(実際は知らないので想像で言ってしまって申し訳ない)、みんな喜んで行くでしょう。それはあの人の歌を聞く圧倒的な価値があるからで、素人のカラオケを聞かせて同じことをしようとするのはステージを間違えています。多くの場合、そういうことをして平然としているのは、今までに自分の仕事をないがしろにして来た人と被っています。何かを成し遂げた人ほど、他人への想像力は厳しく、優しくなるのではないかと思っています。

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。