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「道」:写真の部屋

以前「写真の部屋」の定期購読メンバーに、写真についてコメントを求めたことがありました。もちろん全部読ませてもらい、今書いている写真の本の参考になりました。自分は何のために撮るのか、写真を残すのか。それらは表現は違えどみんな同じように感じていて、うっすらと思っていた自分の考えとのズレもあまりありませんでした。

写真を撮る自由とは何か。
どういう写真が撮れれば満足なのか。

日本には「道」というものがあって、華道、茶道、合気道など、何かを極めるためには古来からの先人が敷いた道を歩かなくてはならないという強迫観念というか、呪縛を感じます。みずからを痛めつける修行や苦行のようなマゾヒスティックな行為は達成感を生みやすいものです。他のことを犠牲にしてこれだけ頑張ったんだから報われるはず、というまやかしの快感を簡単に受け入れてしまうのです。

その気持ちよさはよくわかります。高校野球でもサッカー日本代表でも、感動させる論理をそこに置いている報道も多いでしょう。何せサムライジャパンなんですから。でもその「道」というのは多くの場合、利権やビジネスとの親和性が高く、家元制度などのピラミッド構造を作り出していることも事実です。家元とまではいかないものの写真にもそれに近い例があり、そこでしか通じない宗教を信じる人々が祈りを捧げています。

たとえば華道で言えば、花を愛する人が全員自分勝手に花を生けていてはいけないんでしょうか。家元から指導者としての看板をもらい、流派の名前で自分の生徒を集めるためにする行動はまさしく「フランチャイジー」ですよね。

花屋さんで買った花を自分で生けて楽しむことを写真で喩えると、自分が目にした風景をコンテストに出すわけでも先輩に見せて添削してもらうわけでもなく、ただ自分の楽しみとして撮る。残しておく。これの何が悪いんでしょう。誰かが決めたルールに則って、ここではこのレンズを使ってこう撮ればいいという決められた道を辿る必要はあるんでしょうか。

さて。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。