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エンドレス・ゾンビ:写真の部屋(無料記事)

「写真の部屋」を読んでいると友人から言われた。その人は俺の数倍は仕事をしているカメラマンだ。いや数倍は偉そうだな。数十倍か数百倍。

それを聞いて思ったのは、すでに立派な仕事をしているキャリアのある人ほど謙虚に勉強しているってこと。本人に「謙虚」という自覚はないんだと思う。最初から、そしていつまでもそうやって勉強し続けているから優秀なんだと思う。

反対に自己流で、行き当たりばったりなことだけしていると能力は伸びない。ある時「自分の写真を見て欲しい」という鼻息の荒い人からサイトのURLが送られてきた。なぜこれで鼻息が荒くできるのか医学的な説明が欲しいくらいどうでもいい写真だったので心底ガッカリした。

(彼らは有料で何かを勉強する、という習慣を持たないのを知っているから今回は無料記事にした。それでも最後まで読むかどうかは知らない)

俺は別に人の写真を批評する仕事じゃないからいいんだけど、何度もそんなことがあり「不思議な共通点」を見つけた。若くて自分に自信がある人が血気盛んなのは当たり前で、技術が不足していようが経験がなかろうがそんなことはどうでもいい。数年やっていればそれらは身につくんだから。そういう話じゃない。

ゾンビ映画などで、若者の集団が山小屋にいる。音楽をかけ酒を飲んでいると調子に乗って暗い森に入っていくヤツがいる。見ているこっちは「あ、こいつ殺されるな」とわかってしまう。映画が始まって5分だ。そいつはすんなりゾンビに殺されてしまう。

この「山小屋から出て行く人」が、能力が向上しない人の共通点だと思っている。喩えは強引だけど、つまり「失敗を認めずに何度も死ぬタイプ」なのだ。学習能力とは過去の失敗を次に生かすことでもあるから、同じ失敗を繰り返していては、何年やろうが経験の積み重ねが生まれない。

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それが学習の速度にも関係している。

ある知人が本格的に写真を勉強したいと言っていたのだが、彼の写真は数ヶ月ごとにどんどんよくなっていった。本人は「まあ、趣味ですから」と言うが、そのレベルのことを趣味でやられたらこっちが困る。機会があれば抹殺したい。彼は別の分野ですでにアーティストとして活動している実績があるので「学習の仕方」は学び終えている。スピードスケートのメダリストが競輪でもメダルを獲ることがあるように、「オリンピックへの行き方」を知っている人には大きなアドバンテージがあるのだ。

一度ゾンビに殺されたら、二度と山小屋を出て行かないという簡単なことを守る。二度目にはゾンビが山小屋に入ってきて殺されるかもしれない。そうしたら次は地下室に逃げる。地下室がダメならトラップを仕掛ける。そうやって人は段階を踏んでゾンビと戦う技術を学んでいく。

それなのに毎回山小屋を出て行ってしまう人がうまくなるわけがない。なぜそう無神経にできるのか。失敗の言い訳をして、「自分が死んだ事実を謙虚に認めてこなかった」からだ。

その手の知り合いもいる。カメラを買って何かを撮っていればそれができていると思ってしまう人々。彼らはずっと前にやっていた失敗をいまだに繰り返している。能力の向上というのは抽象的で数値化しにくいものだけど、そんな高尚なことよりずっと手前の失敗だ。和食にバルサミコを使ってしまうように。

もし俺が自分でそれに気づいたり、他人に指摘されたら恥ずかしくて死にたくなるくらいの失敗を皆に見せて、「今回、こんな感じでうまく撮れました」と堂々としている。和食やイタリア料理を真剣に学んだことがないどころか、食べたことすらないんだから、お手上げだ。

自分ができていると思っていることが他人から見たら失敗のレベルだ、ということを理解する気がないから学べない。

彼らこそ、笑顔でゾンビに殺され続ける「エンドレス・ゾンビ」なのだ。


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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。