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インケンなサラダ:博士の普通の愛情

「ねえ、これ見て。インケンサラダって書いてある」

「本当だ。病院食ってだけで気が滅入るのにインケンなサラダはいやだね」

彼女が入院すると聞いたとき、僕はお見舞いに行くことを思い浮かべてなぜか浮かれた気分になっていた。本人は不安だろうし、そんな不謹慎な気持ちになるのはよくないとわかってはいたけど、不謹慎というのはそう自覚しているからこそ、存在の価値があるものだ。

彼女とはある仕事で知り合った。たった一度だけ撮影をして、それからたまにお茶を飲んだり食事をしたりしていた。僕は彼女のことを人として尊敬していた。男性が女性を「人として尊敬する」と表現するのは恋愛感情がないという説明を含んでいる。

もちろん美しく素敵な大人の女性だから、間違って恋愛に発展したらうれしいという気持ちがまったくなかったとは言わない。でも僕がより強く想像できるのは、僕らがふたりで手を繋いで街を歩く風景よりも、「共演した俳優と結婚を発表」という報道を見て、やっぱりそうなるよな、と静かにため息をつく自分の姿の方なのだ。

四谷にある古めかしい病院を見上げる。入院していると暇をもてあますんじゃないかと思って、いつもより多くメールを送った。病室の番号や入り口での手続きを教えてもらうことも、事務的な内容ではあるものの、「あの映画はまだ観ていないなら観た方がいいよ」という楽しい会話のやりとりと同じように機能していた。

教えてもらったように入り口で手続きをした。自分の名前を書き、一週間以内に風邪を引いていないなどという項目にチェックしたりした。そこに「患者との関係」という項目があった。家族ではない。僕はほんの数秒考えてから「友人」と書いた。警備員から格好悪いネームカードを受け取り、首にかけると複雑な通路を通って病棟に向かう。

彼女はそれほど体調が悪いわけではなく、今後の治療を検討する目的の検査入院のようだった。メールでも病気のことはあまり詳しく聞かないようにしていた。僕はできるだけ彼女に負担をかけたくなかったから、「お見舞いって行動をエンジョイするチャンスだから、行く」と言っておいた。なんともひどい言い方だけど。

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女性は入院しているような時に男性に見舞いに来て欲しいものか、をたずねた。化粧もしていないパジャマ姿を見られるのに抵抗はないかと聞いた。平気だよ、と言われたので額面通りに受け取る。彼女のことが好きなのは、そういうところだ。嘘をついたり、体裁を整えるための言葉を使うのを一度も聞いたことがない。それと、化粧や服装で標準レベルの容姿まで引き上げている人と、元が美しい人は違うんだろうと、やや差別的なことも感じた。

食事についてはあまり厳しい管理がされていないようだったから、何か食べたいものはあるかと聞くと、ケーキだと言った。僕はその日の午前中に仕事の打ち合わせがあったので、ケーキを買って約束した面会時間に病院に行くのはかなり無理があった。でも美味しいケーキを食べて欲しいと思って、急いで青山のケーキ屋に行った。

スイーツ界の現状を甘く見ていた。店の前には40分待ちという札がかけられ、かなりの人数が店の前に並んでいる。それを待っている暇はなかった。慌てて別の店に行く。約束していたのとは違ったが、なんとか別のケーキを用意できた。ケーキが崩れないようにタクシーの車内では膝の上に置かず、箱を両手でずっと空中に浮かせて持っていた。こういう気持ちが相手への愛情なのだと自分でわかる。

病室について彼女の顔を見る。いつもと同じだ。天気がいい秋の日だったから、ちょっとした屋上のような場所に行ってケーキを食べることにした。可愛らしい紙皿を小さなトートバッグに入れた彼女とふたりでエレベーターに乗る。ベンチに座り、ビルの隙間から少しだけのぞく空を見上げながら、「いい天気だね」「美味しいね」と、ごく普通のことを互いに言いながらケーキを食べた。

「ダサいパジャマだな」と僕が言うと、「これ、パジャマの中でもお母さんが買ってきてくれた一番お洒落なやつなのに」と言う。僕はカメラを取り出して数枚だけシャッターを押す。撮っても誰にも見せられない写真。僕は病院の受付で書いた書類にあった「家族」という項目を思い出して、これは家族が撮る写真だな、と感じた。

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病室に戻ると、彼女が一枚の紙を見せてくれた。食事のメニューが書かれていたが、打ち間違いで「インケンサラダ」になっているのが面白いでしょと言って笑う。面白いね、と言って僕がその紙を返そうとすると、裏を見てと言う。それは僕への手紙だった。見舞いに来てくれるのを楽しみにしていた、あなたも不規則な生活ばかりしているとこのサラダを食べるはめになるよ、と綺麗な字で書かれていた。

ふたりでいるときに楽しいとかうれしいと思うのは当たり前のことだけど、僕が来る前にこの手紙を書いておいてくれたのだと思うと、胸がちょっとだけ苦しくなった。僕は入院している間にもう一度来るよと言って彼女とハグをすると病室を出た。身体の細さはいつもと同じだったが、病院で感じると少し心配になる。

警備室に格好悪いネームカードを返すとき、また書類が目に入った。あそこに「家族」と書くことができたらどんな気持ちになるんだろう。ケーキを買ったり、写真を撮ったり。そんなことのすべて、どんなに取るに足りないことであっても、家族がやっていることは大切で美しいことなんだなと改めて感じた。恥ずかしいから本当は書きたくないけど、帰りのタクシーの中でこの手紙をもう一度読み直して、僕は泣いてしまった。

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家族でも恋人でもないのに、触ってはいけない大事なものに手をかけてしまった罪悪感のようなものが、水滴の姿をして目からポタポタと流れ落ちていた。

それから今まで彼女と僕の関係は何も変わっていない。変えようとする勇気が僕にはないし、ただタクシーの中で大事にケーキの箱を宙に浮かせていたときのような気持ちでいればいいのだと思っている。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。