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ソーセージカレー:博士の普通の愛情(無料記事)

中学の一年先輩に「ケンイチさん」っていただろう。この前、中野でばったり会ったんだよ。

 ああ、いたね。「関西」というアクセントで「ケンイチ」。うちらの近所は宮坂と藤森姓ばっかりだからだいたい下の名前で呼んでたけど、なぜなんだろう、ガキの頃って名前を変なアクセントで呼ぶことがあるよね。

うん。で、ケンイチさんが彼女を連れていたんだけど、結婚したみたいだ。

 それはめでたい。奥さんは美人だったかが聞きたい。

カレーの種類で言えば「ソーセージカレー」くらいかな。

 どういうことだよ。

普通のカレーよりはいいけど、カツカレーまで立派じゃないというか。

 先輩の奥さんを、ちょっぴりディスってんな。

言われてみるとソーカレみたいな存在ってマジョリティなんだよな。

 なんだよ、ソーカレって。

ソーセージカレーだよ。

 省略するなよ。時間が勿体ない。

お前なんか生きていることに価値がないから、『お前の周囲に流れている時間全体』が無駄なんだけどな。

 わかってるよ。俺だってマジョリティのソーカレだから。

いや、お前はソーカレじゃない。スソーメンだ。素うどんみたいな。

 素素麺かよ、担担麺みたいじゃないか。

だな。

 ケンイチさんって実家が火事になったよね。

そうだったね。親父が亡くなった。高校の校長先生で。

 葬式で会ったのが最後か。

うん。確かそうだった。

 懐かしいな。暴走族時代の美しい記憶が甦るよ。

2ストのオイルの香りとパトカーのサイレンの調べとともにな。

上京したときは不動産会社に勤めたが一年で辞めた。ノルマが地獄のようにキツかった。社員寮があるというだけで決めたのだが、それは客には提供できないほどクソボロい物件か、幽霊が出るという事故アパートだった。幽霊が出る部屋なんて最初から何も信じていなかったから「俺は別に気にしないですよ」と強がってみたのだが、やめておけばよかった。

本当に濃いのが出た。「濃い」としか言い様がなかった。幽霊というのは背景がうっすら透けている25%レイヤーじみた先入観があったのだが、満員電車で汗かきのおじさんにペタッとくっつかれたように湿度と温度まで感じられた。死んでいるのに体温があるのか。そのときは焦っていたからそんなところまでは考えられず、布団にくるまって「すみませんでした」と理由もなく謝った。中肉中背の40代くらいのサラリーマンっぽい幽霊は、夜中に足のあたりが重いなと思って目が覚めたとき、ベッドの下の方に座っていたのだが、しばらくすると消えた。それが数日続いたので管理人に言って部屋を替えてもらった。

「な、やっぱり無理だろう」

管理人のおじさんは少しうれしそうな顔で言った。別の部屋にしてもらってからは幽霊に悩まされずに済んだが、とにかくボロくて暑くて寒かったし、仕事そのものが自分の精神を蝕んでいく気がしたので会社を辞めた。

その頃に出会ったのがミカだった。彼女が中野に住んでいたので無職になった俺はその部屋に転がり込むと、毎日パチンコばかりしていた。

ただいま。ケンイチ、今日は何してたの。

 パチンコ。

そっか。

 いつも同じなんだから聞くなよ。

同じ答えが返って来るのって、平和だから好きなのよ。

 お前は変わってるな。

そうかな。普通だと思うけど。

 世の中に『普通』なんてねえよ。まったく違う食材を大量に鍋にぶち込んでできあがった根拠のない味のことを普通って言うんだ。

ふうん。言われてみればそうかもしれないけど、私は平均値に憧れるよ。

ミカは昔のことや家族のことを一切話さなかった。あまり言いたくない過去があるのだろうから俺も聞かなかった。そういう会話をするたびに、俺はこいつに「平均値の幸福」を与えたいと思ったが真面目に仕事をする気も起きなかったし、自分が死なない程度に生きていくのに精一杯だったから、誰かを支えていくなんて考えられなかった。

ミカと暮らし始めてからしばらくして長野の実家が全焼し、家族のうちひとりだけ残っていた父親が死んだ。真面目な父親は子どもの頃から俺のことを世間体の悪い息子だと思っていたから、それでさらに反発した。地元で葬式を終えて中野に戻ると、ミカが泣いていた。「これで俺が帰る理由がある場所はどこにもなくなった」と言うと、彼女は「この部屋があるでしょう」と言ってしがみついてきた。部屋に入る前、自分に塩をかけるのを忘れたが、そんなジンクスなどどうでもよかった。

当時同じ暴走族にいたタカシさんという先輩と偶然、中野で会った。一緒に仕事をしようと言われて面倒くさいことになったなと思ったが、タカシさんはまだ俺を後輩だと思っているから断ることなどできない。一度生まれてしまった上下関係はいつまで経っても消えないものだ。ミカの部屋から徒歩7分のワンルームマンションでタカシさんと俺は仕事を始めた。

「これからは動画の時代だっていうからよ、それをやるんだよ」タカシさんは俺たちのチームでは特攻隊のケンカ要員として重宝されていたが、先輩も後輩もみんな「あの人は頭が悪いからな」と陰で言われて便利に使われているような人だった。それが東京で時流に乗ったビジネスを始めようとしているんだぜ、とミカに説明したが、俺が仕事をするというだけで満足そうで「先輩を大事にしなくちゃだめだよ」と笑顔を見せ、翌日には弥生町の『洋服の青山』でスーツを買ってくれた。

タカシさんは知り合いのつてを辿って、できもしない動画編集の仕事を次々にもらってきた。俺たちはパソコンを触ることすらしてこなかったのでマニュアルや参考書を読みながらなんとか仕事をこなしていく。あるとき、タカシさんは俺のほうをじっと見つめて言った。

「ケンイチ、なんか仕事って楽しくねえか」

締め切りに追われて必死で徹夜作業をしているときにくだらねえことを言うなと思ったのだが、俺もちょっとそんな気分になっていた。

それから社員を増やしたりして、ビル・ゲイツほどではないけど会社は大きくなっていった。毎月もらう5万円の小遣いとパチンコで勝った金で暮らしていた頃とはすべてが違っていた。「もう5万円くれなくても大丈夫だよ」と言ったとき、しばらく黙っていたミカが、「うん、わかった」と言った。その昭和のドラマじみた空気があまりにも恥ずかしくて「俺はやればできる子なんだ。今までは本気を出していなかっただけだ」とふざけたが、「ケンイチ、偉いね」という涙声を聞いたとき、俺もつられて泣いた。

ケンイチさん、何の仕事してるんだっけ。

 よくわかんないけど、タカシさんと動画プロダクションを共同経営してるとか言ってたよ。

へえ、タカシさんって特攻隊の、頭悪かった人だよな。

 天文学的に悪かったね。バカシさんって言われてた。

それがケンイチさんとふたりで経営者か。

 本気出したんだろうな。あのふたり。

俺たちも雇ってもらおうか。

 今はもう無理だ。会社が大きくなりすぎてる。

会社を始めて数年経った頃、ミカに聞いた。「なんか欲しいものはあるか」「別にないよ」「遠慮するな」「遠慮じゃなくて、本当に欲しいものはないから」「じゃあ、旅行にでも行くか」「あ、いいね。行きたいなあ」俺たちは一度もふたりで旅行に行ったことがない。それをタカシさんに伝えると、忙しい時期だったが二週間の休みをくれた。「外国に行こう。どこに行きたい」「全然わからないなあ。そんな贅沢なこと考えたこともないから」俺はずっと自分を支えてくれた人にそんなことを言わせている自分を恥じた。

スマホで航空券とホテルを検索しながらキッチンにいるミカに声をかける。「ホテルは五つ星で飛行機はファーストクラスにしよう」「えー、贅沢すぎるよ」「いいんだよ。ちゃんと給料をもらってるから気にするな」

リビングにカレーの香りが届いてきた。「カレーか」「うん。ケンイチはいつになってもカレーが好きだよね」「子どもの頃に親父がさ、カレーばっかり作るんだ。ウンザリしたよ」「でも好きなんでしょ」「うん。好きだ」「この前、新宿御苑の『ゴーゴーカレー』に行ったんだけど、ソーセージが乗ってるのを食べたの」「へえ」「それが美味しかったから今日はソーセージを乗せてみました」「おお、美味しそう」「私ね、カレーにソーセージが乗ってるくらいの幸せでいいんだ」

俺は厳しかった親父が作ってくれたカレーの味を思い出していた。


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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。