銀の指輪「5」:博士の普通の愛情
僕は、ある業界誌を発行する出版社に勤めているが、ここ数ヶ月は出社制限もあり、会社に行くことも少なくなった。僕のいるフロアには50人ほどが働いていて、どうしても会社で作業しなくてはいけない理由がある社員は事前に届けを出す。その日に出社できる人数は各フロア20人まで、と上限が決められていて、あとから出社しようと思っても行けないことになっている。
僕の仕事は普段からフリーランスの編集者と似たようなものだから会社のデスクにフルタイムで座っていることはなく、だから特に変化はない。むしろ気楽なバカンスのように過ごしている。時々取引先がある銀座へ行き、観光客がいない街を散歩し、ホテルのロビーで珈琲を飲んで帰る。
そんなとき、リリーと再会した。
彼女がやっている「小説のモデル」という仕事は、時間をもてあました僕の想像力を刺激した。書店に行き、また彼の小説を眺めている。
『暗い部屋』『花の名の女』は物語が続いているようでもあり、そうでもないようでもある。でもそれらはどうでもよく、彼の書く世界そのものに浸っていたい。つまり、僕は彼の愛読者になりつつあったのだ。
「片桐さん、来週の火曜日の夜、時間あるかな」
リリーから電話がかかってきた。もちろん初めてのことだ。
「ホテルのカフェにいるから来て」
リリーは僕の都合などまったく聞く気がないようで、伝えたいことを言い終わると一方的に電話を切った。
火曜日、少し早めにカフェに行くと、もうリリーは来ていた。
「あのね、先生が片桐さんに会いたいんだって」
「僕の話をしたのか」
「ちょっとだけね。そうしたら何か思いついたみたいで」
「俺まで実験台になるのか」
「もちろん、ギャラは払うと言ってたよ」
「そういう問題じゃないけど」
客室行きのエレベーターのボタンは2段に分かれていて、最上階に行くにはカードキーを挿さなくてはならないようだ。
「エグゼクティブ・フロアみたいなところか」
「うん。あまり人が多くないからいつもここなの」
エレベータを降りると廊下の途中にはもう一つ自動ドアがあり、そこもカードキーで開ける。他のフロアの部屋は「1551」のように数字なのだが、このエリアだけは重厚な黒いドアに「Alfa」「Hawaii」などという単語が金色で彫刻されている。無線でアルファベットを間違えないように伝えるときなどに使う単語だと思う。
部屋に入ると大きなリビングルームがあった。ソファに座って、と言われる。
「先生、片桐さんが来てくれました」
リリーは僕が座っている横にバッグとコートを投げると、奥の部屋のドアに向かって声をかけた。
「ああ、コーヒーでも飲んでいて。すぐ行く」
小説家の声は意外と若く感じた。カフェで見かけたときはもっと年長の印象があった。
ルームサービスが届けたと思われる銀のポットから、リリーはひとつだけコーヒーをいれて僕に差し出す。彼女は僕の向かいに座った。今日はベージュ色のタイトなスーツを着ていた。スカートの丈が短く、ソファがやや低いので、組んだ足のフォルムが強調されて僕の目に入ってくる。
「お待たせしました。片桐さんですね」
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。