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『1984』:博士の普通の愛情(無料記事)

https://note.com/aniwatanabe/n/ne39f54ff2ff8
のB面です。

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「ママ、もう帰りたい」

「もう少し待ってて。ママ、この曲だけ聞いてから帰りたいの」

私は高校3年生の時、地元のファミレスでアルバイトをしていました。その帰りによく立ち寄っていたのがこの「ジャーニー」という喫茶店です。お店の雰囲気が静かで暖かく、いつも私が好きな曲が流れていました。マスターに「これは何ていう曲ですか」とたずねたこともあります。次に行くとそのバンドの違うレコードを用意して、かけてくれたりもしました。

タカシさんとはファミレスのアルバイトで知り合いました。同年代の友人しかいなかった私が初めて出会った年上の男性でした。最初は緊張しましたが話すうちにとても繊細で優しい人だとわかりました。

「タカシさんてね、高校のときに暴力事件を起こして退学になったらしいわよ。それからずっと引きこもりだったんだって」

アルバイトのおばさんたちが私に教えてくれました。だから興味を持たないほうがいい、というアドバイスのようでした。でもそんなことはどうでもよく、いつも目立たないように私を見守ってくれるタカシさんのことが日に日に好きになっていきました。

ある日、思い切ってタカシさんを「ジャーニー」に誘いました。そこで相談事などをして、初めて個人的な話をしながら、私はちゃんと目の前のこの人が好きだという確信を持ちました。そして私たちは子供の恋愛の真似事のようですが、一緒にレコードを買いに行ったり、コーヒーを飲んだりするようになりました。

私にはそれがとてもうれしかった。

夏休みに親戚のお兄ちゃんが行ったことがあるという小田原のペンションに行った時、ふたりの関係は突然終わってしまいました。本当なら私たちの距離はこの日の夜にもっと縮まるはずだったのです。でも昔ひどい目にあったというタカシさんの同級生と偶然会ったことで彼は暗い顔になってしまったのです。僕は君のように素敵な人を幸福にできないと思う、と言いました。私が何を言っても無駄でした。

私はそんなことはどうでもよかったんです。その次の日も、その次の日も今までと同じようにずっと一緒にいたかった。それだけだったんです。でもタカシさんは私が大学に入って一人暮らしを始めた後も一度も連絡をくれませんでした。会おうと思えば一時間半くらいで帰れる距離でした。

一度だけ実家に帰った日の夜、駅の向かい側のホームに立っているタカシさんを見つけたことがあります。慌てて電車を飛び降りたかったけどドアが閉まった後でした。一緒にアルバイトをしていた数ヶ月、夏の一日、ホームでの数秒。

私がタカシさんと共有した時間は人生の中でたったそれだけです。でも私はそれから愛する人を見つけることができませんでした。就職したのはリゾート開発の会社で、入社してすぐに沖縄に行くことになって、そこで数年暮らしました。おかしなことだと思われるかもしれませんが、私はずっとタカシさんのことしか考えられなかったのです。男性に言い寄られるたびに、私は地元に好きな男性がいるという説明をしました。

「それって、恋人じゃないでしょう」

いつもそう言われました。でも私にとって初めて好きになった人であることは間違いなく、タカシさんも私を好きでいてくれたと思うのです。

39歳の時、母親に根負けしてお見合い結婚をしました。主人と初めて夜を迎えたときは小田原でのできごとを思い出して号泣してしまいました。彼はなぜそんなに泣くのかと不思議そうでしたが、私はまだタカシさんのことが好きなのです。私の心は高校生のときから深海のような暗闇の中をふわふわと漂っています。

娘が生まれて、自分の分身を見ているような気持ちになる時があります。あなたには好きな人と一緒になってほしい、と願っています。タカコという古風な名前は主人や主人の両親から猛反対されたのですが、滅多に自己主張をしない私がどうしても譲らなかったので渋々認めてもらいました。

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「タカちゃん、このお店はね、ママが高校生の時に来ていたお店なの」

「ふうん。もう帰りたい」

私が好きなヴァン・ヘイレンの『1984』がかかっています。

10月6日、エディが亡くなったニュースを聞いて涙が止まらなくなりました。私たちは一度もヴァン・ヘイレンのコンサートに行ったことはないけど、いつか行けるといいねと言っていました。エディがいなくなってしまってはもうあのギターをふたりで聞くことはできないと思うとたまらない気持ちになりました。まず私は生きているタカシさんに会うことすらできないのですが。

ここに来ても彼に何かが届くというわけでもないのですが、私は「ジャーニー」に来てみることにしました。

「もう少し待ってて。ママ、この曲だけ聞いてから帰りたいの」

私の暗闇の心に光がさすのは、ヴァン・ヘイレンを聴いている時と、愛を込めて娘をタカちゃんと呼ぶときだけです。

「お姉ちゃん、ママに似て美人さんですね」

声をかけてくれたマスターは白髪になっていましたが、店は何も変わっていませんでした。パフェの味も。

マスターは私のことなんか憶えているはずはないけど、今でもヴァン・ヘイレンをかけているんだなと思ったらうれしくなりました。

恋とも呼べないような、若い頃の淡い思い出話です。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。