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喫茶店ジャーニー:博士の普通の愛情

1980年の終わり、僕はあるファミレスでアルバイトをしていたことがある。今だったら何かしら精神的な病名がついて薬が処方されていただろうけど、その頃は家族からただの「怠け者」としか思われていなかった。

何をするにも億劫で、一日中ずっと部屋に閉じこもってギターを弾いていた。ヴァン・ヘイレンやプリンスのCDに合わせて適当に弾く。ちゃんと習ったわけじゃないから楽譜は読めないし巧くもなく、プロになろうなどと思ったことは一度もなかった。ただ膝に楽器が載っている重さを感じ、耳から入ってくるミュージシャンのセッションに混ざろうとしている瞬間だけは、我を忘れることができた。

ある日、郵便ポストにファミレスのチラシが入っていた。家から数分のところに新規開店するようで、アルバイト募集と書かれていた。僕は25歳まで何も仕事をしたことがない。自分のような人間に仕事なんかできるはずがないと思っていた。でもそのときはなぜかできるような気がしたのだ。

駅前のコンビニに行って履歴書を買い、ショッピングセンターで証明写真を撮った。自分でも信じられないてきぱきとした行動に、もしかしたら僕は生まれ変われるかもしれないと感じた。しかしそれを持って自分の部屋に帰ったときに現実と直面する。履歴書に何を書くのだ。高校で傷害事件を起こして退学になった。それから25歳になるまで何もしていない。

僕は、死んでいないという消去法で説明するときだけ生きている、と判断されるような毎日を10年近く送っていた。これを書くのかと思うと気が重くなり、その日は履歴書に手をつけなかった。

翌日の夕方、母親が僕の部屋を掃除しに来たときに机の上の履歴書と写真を見つけたようで、おそるおそる聞いてきた。

「タカシ、就職でもする気になったのかしら」

その腫れ物に触るような聞き方が嫌だった。僕は25年間も親に食わせてもらっていたが、こういう人間独特のわがままでそのことには感謝せず、つまらないことで家族に対して不機嫌になることが多かった。

「アルバイトだよ。クソみたいな仕事だけど」

「あらそう。いいじゃない」

自分が善き人に対してどれほどダメなことを言っているかくらいはわかる。でもどうしようもなく言ってしまうのだ。僕は一瞬でも「生まれ変われるかもしれない」という暗闇の中の光を感じた瞬間を逃してはいけないと思って、自分がそれまで思ってきたこと、行なってきたことの逆をしようと決心した。

面倒だったが履歴書を書き、床屋にも行って面接に臨んだ。開店前のがらんとしたファミレスには数人のアルバイト志望者がいた。ほとんどが近所の高校生と主婦で、若い男性は僕しかいなかった。面接をするのは本部の若い社員だか何かで、気分の悪いやつだった。7人か8人を並べて、プライベートなことを皆の前で聞く。

「シバタタカシさん、あなた、高校を中退してから今まで職歴なしなんだね。まあこちらとしては特に問題はないんだけど」

それを皆に聞こえるように言うのか。今ならSNSで炎上してもおかしくないと思うが、僕はこういうのに耐えるのが働くことなんだろうと思っていたし、ゲームの雑魚キャラだと思って「はい、はい」と答えておいた。

開店時に店に集まったのは応募に来ていた全員で、つまり誰も不採用になっていなかった。僕は合格率十割だったがこうして初めての仕事を得た。ファミレスの仕事は新鮮で最初はキッチンに入った。何かを憶えていくというのはとても楽しい。僕は毎日同じ時間に仕事場に行き仕事をする自分に驚いていたが、店長が「高校生はサボるから、年上のタカシくんが面倒を見てやってくれ」と言われるようにまでなった。店長は明るくていい人だった。

半年が過ぎた頃、昔の自分をすでに思い出せなくなっていた。

僕は9時から6時くらいのフルタイムで働いていた。午前中は主婦と夕方は高校生と仕事をして世間話をし、それまでの家族以外誰とも話をするどころか、顔を見ることもなかった生活とは一変した。いつの間にかどこにでもいる「普通の人」になることができた。夢のようだった。

高校生のアルバイトは入れ替わりが激しいから、後から入ってきた人は僕のことをまともな先輩の社会人だと思っているようで、それもまた面白かった。僕が25歳までひとりも友達がいない引きこもりだったなんて想像もしなかっただろう。

ある日、店長が本部での会議があるので「今日はタカシに任せたよ」と言って外出した。新しいアルバイトの面接があるのを忘れていたようだった。それに気づいて、あとから「面接も任せた」と電話があった。

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夕方4時、オカノミエコがやってきた。ファミレスの近くにはいくつか高校があるのだが、その中でも一番の進学校の3年生だった。その高校のアルバイトは今までにいなかった。事務所で面接をしようとすると、彼女を案内した(失礼だけど一番程度の低い)高校のノリカが制服を見て「まじ、S高なの。すごーい」と言った。

字が綺麗だった。英検2級などと書かれた履歴書を見て、なぜこの人を不良だらけの高校を退学になった僕が面接しているのか不思議に思った。ただ先に勤めていただけだ。

字が綺麗だとは言ったが、その前に感じた別のことがある。彼女はとてつもない美人だったのだ。高校3年生というのは大人とも子供ともつかない微妙な年齢だが、彼女はその配分がとてもバランスよく、一緒に仕事をしていると普段は無邪気だが、ときどき見せる仕草には大人の女性を感じさせることもあった。

はっきり言ってしまうと、僕は男子校を中退したあとずっと引きこもっていたわけで、女性と付き合った経験はゼロだ。

「私、今日は5時に終わるんですけど、タカシさんは6時ですか」とミエコに声をかけられた。それまで彼女とは仕事以外の話をしたことがなかったのでやや慌てた。「駅前にジャーニーという喫茶店があるんですけど、そこで待っていてもいいですか」と言われた。話があるそうだ。

僕は6時になるとすぐに駅前の「ジャーニー」に向かう。一度も来たことがない店だった。昔からおじさんが一人でやっているような、どんな商店街にも一軒はあるような野暮ったい店だ。入口の大きなガラスの扉の奥からミエコが手を振っているのが見えた。ミエコは学校の帰りにS高の制服のままやってきてファミレスの制服に着替える。そして帰るときも高校の制服だ。それが今日は私服を着ていた。

向かいの席につきながら「ミエコさんの私服を初めて見たから新鮮だ」と平静を装って言った。彼女は「おしゃれな服を持ってないので、すみません」と恥ずかしがる。当時の高校生がよく着ていたピンクのモヘアのセーターだった。確かにおしゃれではなかったが、古い喫茶店に座っている彼女の姿は可愛らしかった。

「言いにくいんですけど、本社のイシイさんいますよね。あの人がちょっと苦手なんです」とパフェを食べながら言った。面接の時に僕の履歴書を面白がって皆の前で読んだ、あのクソ男だ。「僕もあいつ、嫌いですよ」と言うとミエコはほっとした表情を見せた。

「よかった。イシイさんが家に電話をしてきてデートしようとか言うんです。父親が電話に出ることもあってそれで困ってしまって。タカシさんに相談したんです」

もちろんこの頃はスマホなんていうものはない。ミエコの家の電話は履歴書を見たんだろう。やはりあいつは最低の雑魚キャラだ。僕は店長に報告しておくと言って安心させた。

「私、この店が好きなんです。落ち着くし、ヴァン・ヘイレンとかかかるし」

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。

来世こそは、人間になりたい。
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写真家・アートディレクター。着ぐるみの中は繊細です。1964年生まれ。「ロバート・ツルッパゲとの対話」 https://www.amazon.co.jp/dp/4908586071/

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