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鳥取県大会:Anizine

「何かを知るほど、自分には知らないことがあるんじゃないかと思うと怖くなる」それが論語に出てきたり、ソクラテス兄やんが言ったとされている、よく知られるフレーズなんだと思う。

知らないことが理由で無敵になる人もいる。1リットル入る水筒の中に水が一杯であることを誇る人がいれば、家にある大きなプールには水があまり入っていません、と謙遜する人もいる。本来持っている潜在的なキャパシティが大きいほど落胆も同時に存在するということだろう。

さっき、「あの人、英語ができるから頭いいよね」という会話を聞いた。能力があるというのは、ペンがあれば上手に絵が描けたり、ピアノがあれば巧く弾けることを指す。英語ができるというのはそこにペンやピアノがあることとは何も関係がない。そこでわかるのは「負のスタート」であり、話している本人が英語ができないというだけの話だ。

日本人のほぼ全員が日本語を話すが、頭のいい人も悪い人もいる。言語はペンやピアノであり、また能力の評価の多くは相対的であって絶対値ではない。あの人よりも仕事ができる、あの人よりも料理が上手い、という構造になっている。数値化できるのは陸上競技の記録みたいなものだけ。

野球やサッカーですらその日のコンディションで、こちらよりこちらの方が強かったということでしかなく、ホームラン数などは客観的な数字に見えても厳密な意味での数値化はできていない。メジャーリーガーが王貞治の記録を「日本の球場はアメリカよりも小さいから」と言って認めたがらないことがあるのはそのせいかもしれない。

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多くの評価が相対的である、という事実は何かを誤魔化すときに巧妙に使われる。評価のサイズを小さくしていけば、いつかは自分が一位になるスケールがあるからだ。そのサイズを縮小していった結果、「地元の中学では一番だった」「県大会ではベスト16だった」などという、世界的な規模で見ればどうでもいいプライドを生み出す。

数年前に30代の知人を同年代の知人に紹介したことがある。片方はとても頭のいい人で、もう一方はあまり知的じゃない人だ。そういう言い方はよくないので言い換えると「手応えのある、うすらバカ」だった。彼らが話していた中で、ひとつ記憶に残ったフレーズがあった。

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Anizine

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写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。