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銀の指輪「3」:博士の普通の愛情

青山にある大型書店に行ってみた。

リリーが言っていた作家の名前を本棚から探す。かなり多く彼の本が並んだエリアがあったから、実績のあるベテラン小説家なのだろう。

ある時期から僕はフィクションをまったく読まなくなっていた。作り話に没入できないのだ。もう十年以上になるだろうか。本と言えばノンフィクションばかり読んでいる。この地球上で様々な問題が起きているのに、それを解決もせぬまま空想にふけっていてもいいのだろうかと思ってしまうのだ。まあ、僕がノンフィクションを読んだからといって世界の問題はひとつも解決しないんだけれど。

リリーと関係がありそうな、『暗い部屋』『花の名の女』というタイトルの二冊を手に取りレジに向かう。小説を買うと気持ちが高揚する。久しぶりに味わう感覚だった。

帰りのタクシーの中で『暗い部屋』のページをめくる。夕方のオレンジ色の光が陸橋に遮られ、途切れ途切れに文字の上を通り過ぎていく。早く家に帰って続きが読みたくなるほど、その物語の導入部は興味をひいた。他の読者とは違って、僕にはリリーの横顔がわかる。

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私たちは毎週この部屋で会うが、彼女は私にひとかけらの愛情も持っていない。私はどうか。よくわからない。彼女は部屋を出るとき、封筒に入ったいくらかの金を受け取る。金銭くらい介在しないと、会う理由がまるで見つからなくなるからだった。

私は彼女とこの古い屋敷の部屋で数時間を過ごすことにしている。何をするでもなく、音楽をかけて黙っていることもある。抱きしめたことも手を握ったこともない。私は彼女の横顔と窓の外の風景を一緒に眺めているだけだ。

昨日は雨が降っていた。窓ガラスを雨がつたう。次から次へと何本も。水滴は私が想像したのと違う方向に流れていくことがある。みずからの重みを感じながら半球の水は摩擦が小さい方の道を選んで進み、落ちていく。ガラスの表面には目に見えない埃や傷があるのだろう。それを避けるように涙のように流れていく雨粒を、もう数十分ほど見ている。

「先生、そんなものを眺めていて楽しいですか」

彼女はそう聞くが、あなたも一緒に見ていたのを私は知っているよ。

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僕はリリーが言っていたことがわかったような気がした。男女には数え切れないほどの特殊な関係があり、それをすべて恋愛という枠の中で考えてはいけないのだなと思った。

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僕が若い頃、大好きなミュージシャンがいた。名の知れたバンドのギタリストで、たまたま友人に紹介されて仲良くなった。彼は50歳前後、僕はまだ独身で25歳だった。彼には40歳くらいの奥さんがいて、家に招かれふたりとよく食事をした。奥さんはとても明るく優しく、僕は彼らが大好きだった。

僕は音楽の仕事に就きたいと思っていた時期があり、彼にはそれを隠していた。ものにならなかったから恥ずかしかったのだ。ある日、奥さんとふたりだけの時に、「片桐くんは、何か夢があったの」と聞かれ、僕はベーシストになりたかったと答えた。彼女はとても驚いた顔をしていた。僕は彼らの前で一度も音楽の話をしたことがなかったからだと思う。

僕は彼のバンドの音楽をずっと聴いていて、そのギタリストと友人になれたことに感激していた。だからこそ、ファンであることくらいは軽く言ったが自分が音楽をやっていたことについては隠しておきたかった。奥さんはなぜ僕がそれを彼に伝えなかったかをすぐに理解したようだった。そういう、人の心がわかる、繊細なところがとても好きだった。そう。好きだったのだ。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。