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トレテルとウツッテル:写真の部屋(無料記事)

小学生の修学旅行のとき、親戚のカメラを借りていって初めて写真を撮った。今の子がスマホを使って写真を撮る環境とは大違いで、帰ってから現像してみると撮りまくった写真はほぼ何も写っていなくて、ボケボケのブレブレの真っ暗な写真ばかりだった。

その印象は今でもとても大きなトラウマになって残っている。デジカメを使うようになっても「写っていないんじゃないか」と感じることがあるのは、ここから始まっていると思う。ロケでデータをアホみたいに何重にもバックアップするのもトラウマのせいだ。よく「フィルムとデジタルでは一枚にかける覚悟が違う」なんてことをいう説教臭いジジイがいるけど、一理あると思う。

失敗に対する恐怖の感覚は少しでもいいから持っていた方がいい。あまりそれが大きくなると萎縮するけど、デジタルだから写っているか確認できるし、ちょっとくらい失敗していても後処理できるだろうという取り組み方をしていると撮る態度が雑になる。

写っている、と、撮れている、はまったくの別物です。

これはプリントアウトしてデスクの前に貼っておいてもいいフレーズだ。誰でもカメラを買ってシャッターを押せば写真は写る。でも「撮れている」こととは全然違う。仕事で写真を撮る場合は、撮って欲しいと頼まれた人の要求に応えつつその想定を上回らなくてはいけない。だからみんな苦労しているんだけど、それがわからないと「写っている」と、自分でゆるいオーケーを出してしまう。

毎回同じ喩えで恐縮なんだけど、その恐ろしさは世界で一番いいモノを体験したかどうかの経験による。美しい砂漠を見た、最高の料理を食べた、素晴らしいパフォーマーを見た、そういう積み重ねが何を与えてくれるかと言えば自分の至らなさで、俺はまだそこに到達していなくて情けないというマゾヒスティックな感覚。

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コンビニのスイーツや、友だちの演奏会や、チェーン店の寿司を「これは最高だ」と思っていると理解できない。打ちのめされないから。何もそれらに価値がないとか劣等だと言っているわけではなく、「自分が消費する体験がみずから到達するレベルを設定しますけど、そこでいいですね」ということ。

「達成度と要求」が食い違う人がいる。ジョギングを始めて楽しい。だんだんタイムが上がってきたので市民マラソンに出る。4時間を切ることができた。それらの楽しみは誰にも否定はできない。ただ、ジョギングを始めた段階で、自分はオリンピックの日本代表と同じだと平然と思ってしまう人がいる。それなら彼らと並んで走ってみるといい。あっという間においていかれ、自分の遅さに愕然とするだろう。実際のところ、我々素人が全力疾走している速度で42キロを走り切るのが世界レベルのマラソンランナーだ。

達成度が高い人にはお金を払うが、そうでない人には払わない。これも生々しい客観基準のひとつで、撮影料を20万円しかもらえない人と、100万円の人と、1000万円の人がいる。自分の銀行口座に20万円しか入ってこないのに1000万円のことを言っていないかどうかは、数字ではっきりとわかるでしょう。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。