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冷蔵庫のカレンダー:Anizine(無料記事)

他人の目に触れる文章というのは、ある程度気を遣って推敲されたものであったはず。提出する書類、新聞・雑誌などの記事、ラブレターなどもそうだけど、何度も「本当にこれでいいか」と、伝えたい事実や感情が表現できているか熟考して言葉を選んでいたはずだ。

それがソーシャルメディアでは雑な会話と同じように扱われる。会話に無駄があるのは当然で、効率よく連絡事項を伝えたいという目的だけでは2時間も話すことはできない。無駄な会話独特の、やり取りの間の沈黙や話の脱線があるから楽しいのだ。しかしそれをそのままテキストにすると何が起きるか。あきらかな違和感の発生だ。対談などを読むと(笑)や(お互い、しばらく考え込む)などの状況説明がついていることがある。ふたりが笑ったことや言葉に詰まった様子を映像的に再現しようとするのは、ややもするとやり過ぎだったりバラエティ番組の過剰なテロップのように押しつけがましいことにもなる。

会話と文章表現はまったくの別物。親子がLINEで会話をするのなら「お米買ってきて」「何キロ?」「1」「わかった」でいいのだろう。でもそれが不特定多数の人に向けたものになったら、ちょっと意識を切り替える必要がある。会話や箇条書きのような表現ではダメなのだ。

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ある会社から打ち合わせに来て欲しいというメールが来て、会議に参加する自社の社員にもCCされていた。「14時、奥の会議室でお願いします」と書かれていた。どこのことを指しているのか、外部の俺にはまったく伝わらない。「奥の」「小さい方の」などという、家の中で使うような通称は家族以外の人には伝わらない、という客観性欠如のいい例だ。

「客観的な伝達と、冷たくなりすぎない湿度」を文章でコントロールできる人はあまり多いとは言えない。日常の出来事を日記として書いている人が、その日にあったことを箇条書きにしても誰も読まない。それは自宅の冷蔵庫に貼ったカレンダーに書いておけばいいことだ。何かが起きたことで感じたことが誰にとっても普遍的な価値を持ったとき、初めて読む気が起きる。ソーシャルメディアでフォロワーが多い人を見てみると、そういう表現をしていることがわかる。

わかりきったエクスキューズを書くけど、フォロワーが多いのは偉いという基準ではない。ただ多くの人が興味を持つ部分は何かという参考にはなる。そこには有意義な情報の伝達とともに、感情の湿度が介在している。

近所に花が咲いていたと書くとする。それは個人的な体験だから、「近所に花が咲いていた」だけなら冷蔵庫のカレンダーだ。では、私が花を見た、が共感を生む文章になるためには何が必要か。咲いている花を見た自分は何を感じたのか、花を見なかった数秒前の自分とは何が違っているのか、の結果が知りたい。別に俳句にしろとか詩的に書け、ということじゃない。それぞれ違った個性を持つ人が花を見たことで引き起こされる感情を知るのが、自分以外の人が書いた文章を読む面白さだからだ。

文章だけではない。日常的なコメントのやり取りにも会話表現と書き言葉の境界線を意識させられることがある。誰かが書いたことに「御意」などと書く人がいるが、そこで引っかかるのは語尾だ。カフェでコーヒーを頼むときは「コーヒーをください」「コーヒーをお願いします」と言う。「コーヒー」とだけ言うのは常務クラスっぽくて偉そうだし、まずコミュニケーション能力が低い。

人間が持っている感情の湿度は語尾にあらわれることが多い。ロボットや召使いに注文するのではないのだから、感情を伴わない湿度のない命令は社会全体を乾燥させてしまうことに通じる。だから発する言葉や書く言葉は繊細に保湿しておかなければならない。「あのお店、何て言いましたっけ」と聞かれたリプライは「ドトール」ではいけない。「ドトールです」「ドトールだよ」その語尾は互いの関係や親密さで変化するが、言いっ放しはダメだ。

語尾が乾燥するとゴビ砂漠になるので注意しろ、とまとめておく。


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