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差別の構造:Anizine(無料記事)

ある若者から、70年代アイドルの動画リンクが送られてきた。「これ見てください、ダサかっこいいですよね」と書いてあった。

ああ、これが「差別」というものだと感じたので、書き留めておく。

その70年代の、へんてこな衣装を着て歌い踊る人たちは平成生まれの若者に教えてもらわずとも俺はリアルタイムで見ている。世界中のすべての出来事にはその瞬間の狂騒の中、全力で行われている尊さがあるものだ。

あとから見れば「ダサい」「カッコ悪い」と見えるのだろうが、それは固定電話を使っていた時代に誰一人としてスマートフォンを想像し得なかったという、当たり前の話だ。それを「固定電話ってダサかっこいいので、インテリアとして部屋に置いてます」というのは、一見理解を示しているようで、実は優位に立ってバカにしている。

当たり前だけど、今から10年後にはスマートフォンのバカバカしさを語る時代が確実にやってくる。その「現時点での自分の至らなさ」に対して盲目である人が、なぜ傲慢にも結論が出た過去を面白がれるのだろう。サブカルが嫌いなのは、そこだ。

差別というと大げさだと言われるかもしれないけど、「自分とは違う環境に暮らす人」、大きく見れば「自分ではない人」への想像力を欠いた人の言葉はすぐにわかる。差別だと思われないような遠回りな言葉のチョイスも同時にわかる。「私は他人を理解したいと思っている」というような博愛主義の言葉には、今は理解していない、できない、という感情が閉じ込められているからだ。

それを環境や立場の違いが理由である、としか感じることができないのは思慮が足りない。同じ境遇だと思っている人だってまったく同じだけの齟齬がある。家族や親戚の中で起きる殺人事件などがどれほど多いかを考えればわかる。

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俺は写真を撮っているから「同じ」「違う」という究極の選択を職業的におこなっている。人物を撮るときには、俺とは違う生き方をしてきた人だと思うし、服も、肌や目の色も、すべてが違うものだと思いながら撮っている。

その「違い」こそが撮りたくなる理由で、撮り終わったあとに握手してニッコリする一瞬には「同じ人間だ」という手応えがある。

「差別」という感情の根深さは、「自分は差別をしていない」と思うところにある。そういうことを考えていたら、たまたまフォロワーの方が数年前のツイートをRTしてくれていて、はっとした。他人を見下さないこと。他人はフィールドワークの娯楽の材料ではないと知ること。

それを思い出させてくれた。この写真は確かハワイ島へロケに行ったときだと思うけど、自分とは違う人の日常を見たことでシャッターを押した。そこには何の意味もないんだけど、その意味の無さにこそ、自分以外の人との距離感が出る。

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