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世界はいくつもある。

自分が経験できる人生はひとつしかない。

子供の頃に学校推薦の図書によくあったのが伝記。ナイチンゲールとかキュリー夫人などは、誰でも一度は読んだことがあると思う。伝記を読むと自分とは時代も場所も違う偉人がどう生きたかということがわかる。それをさらに拡大したのがフィクション。『ハリー・ポッター』を読めば、本当にヴィクトリア駅から電車に乗って魔法の学校に行けるような気がしてくる。

幼少期の読書体験の多くは環境によるから、親が本を読む習慣を持っていないと子どもも読むようになりにくい。それは「人生はひとつ」であるということに疑問を持っているかどうかにも関わってくる。

ナイチンゲールって誰よ。そんな昔のどこか知らない国の人のことはどうでもいいわ。と言ってしまえばそこで終わりになるのだ。

本を読む人の特徴は、「仮定を受け入れられる」ことにある。自分と無関係な人の話やファンタジーを読んできたからだ。でもそうじゃない人は、地元で起きたことや、同級生や近所のコンビニや、千代田線の混雑の話や、昨日のテレビで見たタレントの話をする。目で見えていること以外に別の世界があると感じていないのだと思う。

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俺は『ロバート・ツルッパゲとの対話』を買った報告をしてくれた人全員にTwitterでお礼を書いているんだけど、書名で検索している中に、「どこかで見たけど、ロバートって誰なのよ」というコメントも見受けられる。なぜそう言うのかと言えば、「知ることのメカニズム」に慣れていないからだ。

極端な言い方をすれば、読書の習慣がある人はそう言わない。無限に近い知らないこと、空想やフィクションでこの世界の一部分はできていると訓練されているからだ。その前提を否定したらハリー・ポッターは存在できない。

知識が及ばず知らないことがあったら調べればいいし、調べるほどの興味がないことについてはそもそも言及しなくていい。知らないことを高らかに宣言してしまうことへの恥は、本を読めば読むほど大きくなる。俺はナイチンゲールやキュリー夫人のようなことを何一つ成し遂げていない、と感じることもできる。

「見えていないモノの存在に慣れていない」というのは、自分の人生より大きな世界を生きていないことに繋がり、そこから他人との違いを認めない差別や争いが生まれてくるんだろうとも思う。



多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。