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時計の止まった喫茶店:Anizine

夕方に駅を降り、大きな公園を挟んでいつもとは違う道を歩いた。

ここに引っ越してきてから初めて通る道。公園の右でも左でも、どちらを通っても同じ場所に出る。今までは賑わっている商店街のアーケードの方を自然に選んで歩いていた。今日は工事をしているらしく、そちらが通行止めだった。

初めての道を行くと、数軒の古い店がぽつぽつと並んでいた。いつもの道と合流する直前に古い喫茶店の看板が見えた。レンガ造りの建物にツタが絡んでいていい雰囲気だ。僕はコーヒーが飲みたくなって、古くて重い木製のドアを開けた。

中は暗かった。もう閉店したのかと思いながら、カウンターの奥にいる70代くらいの女性に声をかけた。

「やってますか」

オレンジ色のランプの下に座り、本を読んでいた女性は何も言わずに立ち上がる。やっているようだ。僕はカウンター席に座ってコーヒーを注文した。ややぎこちない手つきだったが、コーヒーのいい香りがしてきた。目の前に置かれたコーヒーカップ。そのとき、彼女は右手が不自由であるように見えた。

コーヒーを飲みながら店内を見渡すと、まるで70年代から時計が止まっているような店だと感じた。僕はこういう店が好きなのだ。彼女は来たときと同じようにカウンターの奥で文庫本を読んでいる。

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骨董品のようなレジの前に立ち、お金を払おうとすると、彼女は座ったまま「お代は結構ですよ」と言った。「いや、悪いですから」と僕は断る。

「あなたが店に入っていらしたとき、ここに座っていた私と目が合ったでしょ。うれしかったからいいの」

どういうことかはわからなかったが、サービスなんだろう。ただにしてもらったからということではなく、居心地がよかったのでまた来ようと思った。

店を出て少し歩いたところで、40代くらいの女性が声をかけてきた。

「あの、失礼ですが、今あの店から出て来られませんでしたか」

「はい。コーヒーを飲んでいましたけど」

「コーヒーが出てきた。誰かがいて、淹れたってことですね」

「はい、70歳くらいの女性が。それがどうかしましたか」

「あそこは母がやっていた店なんです。もう三年前に閉店しています」

「そうなんですか」

「もしかして、その女性は、右手が不自由ではありませんでしたか」

「はい。そのように見えました」

答えながら、僕の背筋には冷たい汗が流れた。

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Anizine

¥500 / 月

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。