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「内なる批評家」

大好きなシェフが自分の店を開いて、あっという間にミシュランの星を取った。まだ行けていないんだけど、時々アップされる美しい料理の写真を見るだけでため息が出る。

能力の基準には「客観的評価」と「自己申告」があって、ミシュランの星が料理人を判断する材料として完璧だとは言わないが、ある程度の目安にはなる。それは結果というより目指している方向の正しさじゃないかと感じる。

最終的にどんなことをしたいか、今はその道のりのどこにいるのかを冷静に判断したいと思っている。自分の中に誰よりも厳しい批評家がいれば、「私がやっていることには価値があって素晴らしい」などという傲慢な誤解をしなくて済む。

クリエイションというのは、いまだ世の中にないモノが見えていて、それを自分の手で作り出したいという欲求、だと定義している。だから目の前にあるモノの大ファンだったり、世の中にすでにあるモノに憧れていたらクリエイションの領域には到達しない。

今あるモノを徹底的に学んで行くと、自分の不満や渇望は何かが「自然に」見えてくるはずだ。それは誰からも求められないかもしれないし、評価されないかもしれない。でも、確実に自分にしか見えない世界を描ければ、必要な誰かには届く。クリエイションはマーケティングではないからだ。

そのシェフのように、料理の写真を見ただけで完璧な料理人の志が伝わるようになれば、自分がいかに優れているかを必死に説明しなくても済む。

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俺は自分が撮りたい写真を誰からも命令されずに撮っている。これでいいのかなとクリエイションの質の評価を伺う相手は「内なる批評家」のみ。それ以外の人からいくら褒められようが貶されようが何も気にしない。

「創造」は散歩のようなもので、天気が良い日に景色を見ながら歩くことと似ていると思っている。舗装された道路を外れ、草むらに分け入り、冷たい川の水に足を浸す。知らない人から「お前の散歩は間違っている。歩道から外れるべきではない」と言われても知ったことか。

時々、「お前の散歩はいいなあ」とか言いながらお金を払ってくれるセンスのいいお大尽がいるから俺は生きていける。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。