昭和セピア色のこんなハナシep13.「デパートの贈答品配達」の巻。
間もなく夏休み、アルバイトの話?
夏休み直前ともなれば、クラスでは明るい話題が飛び交う。
旅行の話や、アルバイトの話などなど。
高2の夏休み、俺は特に計画は無かった。
ざわざわと話が飛び交う中、誰かが「俺、もう決まった」と言っていた。
他の誰かが「どこ?」と聞き、彼は「百貨店の配達」と答えていた。
俺としては、小遣いは欲しいがアルバイトの経験は無かった。
彼が話していた百貨店の配達に興味を覚え、彼に雇ってくれそうかどうかを訊ねた。
「多分、大丈夫だと思うよ、とりあえず行ってみたら?」と。
いきなり「じゃあ明日から」
1学期の終業式から帰宅し、午後、自転車で運送業者のデポに向かった。
配送所は百貨店の小包が山と積まれていた。
所長らしき人に「○○高の○○君に聞いてきました」みたいな何ともぎこちない挨拶をした。面接というような堅苦しい雰囲気ではなかったような気もする。
お中元の時期でごった返していたし、とにかく人手が足りないようだ。
「じゃあ、明日から」と即答だった。
配達自転車に満載
現在、団地やマンションの駐輪場、駅前の駐輪場、あるいはどこの家庭の玄関先などで見かける自転車は、軽快な変速機仕様だったり、電動アシスト仕様や、いわゆるママチャリしか見かけない。
しかし当時は、自転車と言えばほとんどが業務用自転車の時代だった。
郵便配達、新聞配達、酒屋の配達、牛乳屋の配達、等々、荷台には大きなカゴが取り付けられている。ハンドル部分にもがっちりしたカゴが付いてる場合が多い。
荷物は百貨店のお中元小包が所狭しと積まれてあるが、各地域ごとに分けられていた。仕分けしているおじさんに「お前が行けそうな場所でいいから適当に選べ」と、指示された。
初日は夢中で分からなかったが、数日後に知った。
他のアルバイトの連中は慣れたもので、大きい箱や重い箱はどうしても敬遠され、小さい、軽い荷物がどんどん捌かれてしまう。
残る荷物は大きい、重い、となれば自転車のカゴに積める個数が限られてしまうのだ。
事務所で折り畳みの○○区地図を借り、積み込む荷物の宛先住所をある程度揃え、地図を持ちいざ出発だ。
ペダルを踏み、今日の予定の配達方面に向かう。
麦茶が美味い、カルピスはもっと美味い
近年のとりわけ今年の夏の猛暑は耐え難い。当時の夏だって暑いことは暑い。腰ベルトにタオルをぶら下げて汗をふきふき、自転車をこいで配達するには確かに暑い。
近年の熱中症なんて言葉は無いにしても、「日射病」には気を付けろ、みたいな話は聞いていた。
配達先の呼び鈴を押し、ほとんどの場合、奥様が出てこられる。
お婆さんも含めて今風に言えば専業主婦だ。
大きな構えの家では、現代の言い方では家政婦さん或いはお手伝いさんだが、当時は女中さんと呼ばれていた方が出てくることもある。
「○○さんですね、ハンコお願いします」は、基本的に今の宅配に繋がっているのだろう。
しかし、現代の宅配のような時間指定や、不在通知票など無かったと思う。
殆どの家庭ではどなたかが在宅していたし、たまに不在(留守)のお宅もあったが滅多にないことで、デポに持ち帰ることもある。
さて、たまに配達先で麦茶を出されることもある。汗をかきながら日焼けしたあんちゃんの顔を見て、
「ご苦労様、暑いでしょう、ちょっと待ってね」と言って、奥様は優しく麦茶を出してくれた。
ごくごく飲んでふぅわ~、っとため息が出る。奥様はにっこり「気を付けてね」と・・・、「ごちそうさまでした」・・、何だか嬉しい。
そうそう、別の日、別の配達先。
高校生の俺から見て、いくつくらいの奥様か分からないが、今思えばおそらく20代後半か30代くらいかな、色白でとても綺麗な奥様に出されたカルピスは、いやはや、この世のものとは思えないほどおいしかった。
そして高2の夏休みは終わった。
2学期の始業式、誰もかれも真っ黒に日焼けしていた。
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