不条理の形骸~別役実in松本2022秋
★1~松本の別役芝居
客席のあかりがすうっと消えていく。しばしの暗闇。芝居が始まろうとする。つぶれた映画館をつかった「上土劇場(あげつちげきじょう)」の小ホール程度の客席は観客で埋まっていて、芝居の始まりにそなえて息をころし、かすかに緊張が走る。
舞台上に照明がともる。スカート姿の女が背を客席に向けて両脚をつっぱり、尻を観客に思い切り突き出している。ずいぶん図体のでかい女だ。その尻のでかさ。上半身をかがめているので尻が余計に突き出されている。
上手からサラリーマンのいでたちの男が現れて、気弱そうな声をあげて言葉を発する。
「えーと、ここですか、受付は……?」
「そうですけど!?」
女が男の呼びかけに、大声で答えて振り向く。
大女はおかっぱのカツラをつけた大男だった。女事務員の恰好をした男女(おとこ・おんな)だった。松本の芝居好きには馴染みの男優だ。女の正体が知れて、それが馴染みの男優が装った女装だと知れると、正面を陣取る常連客がどっと笑う。
サラリーマンの男は気弱そうに用件を告げようとするのだが、大柄のおとこ女は大音声(だいおんじょう)で的外れな答えを言う。
すれ違ったかけ合いが続き、客たちは徐々にここは精神科クリニックの受付で、男がやましい気持ちで診察の希望を告げるのだが、おとこ女が大声でまくしたてるのは、男の登場で邪魔が入り、いま集中していた「筆立ての置きどころ」がわからなくなってしまったと男を責めたてる。
台詞がかけあうすれ違いの効果が受けているというより、気弱な男と大声のおとこ女の威圧の落差に客席は笑いどよめく。
ずいぶん荒っぽい芝居が始まったなとわたしは思う。
この芝居を書いた別役実が常々説いていた、上手と下手(かみて・しもて)が持つ、芝居の決定的に繊細な始まりを、この演出家は知っていながら、あえてそれを無視して、安手な芝居をつくろうとしているのだろうか?
別役の芝居がはらむ「方法=メソッド」を少しでも知っていたら、まず採用しないタイプの芝居がいま目の前で展開されている。
たとえば別役は演劇論『舞台を遊ぶ』(白水社・2002)で、芝居の始まりを説きながら「上手」と「下手」の役割の違いをしつこいほど強調している。
ひとりの熟達した俳優なら、上手から現れて、下手へとただ消えるだけで、どんな微細なニュアンスを描き出せるか詳細に述べている。
芝居の「始まり」こそどこまでデリケートに始めてもその意義は尽きることはなく、そうであってこそ伝わるように自分はその戯曲を書いているのだと、別役は自負とともに語っている。
もちろん別役の注釈や演劇論を無視して別役の芝居を演出してもいいだろう。だが、ふたりの役者がいま声の大きさの違いで笑いをとろうとしているのはずいぶん安手な効果であり、「筆立ての置きどころ」をどう演出するかの方がよほど組み立てに難しく、しかし実現すれば比類のない「芝居の立ち上がり」で観客たちを瞠目させられたろうに、とわたしは残念に思う。
いま面前で展開する芝居は別役が言いたてた「メソッド」を無視して、上手と下手の効果を台無しにし、筆立ての小道具の存在も埋没して、ただ大・おとこ女と小男の声の大小だけで笑いをとろうとしていた。
「笑いはポーカーフェイスでないといけない」と言ったのも別役実本人で、その言葉はもうひとつの著書『コント教室』(白水社・2003)に記されている。役者はポーカーフェイスで笑いを・コントを演じなければならない。観客も笑っていいのかどうか迷うくらいが、別役の狙ったデリケートな線なのだ。いま観ている、「笑え」とばかりに押し付けがましくアピールしまくっている安手の芝居は、そもそも別役芝居には関係ないものだ。
★2~『受付』の作法
この『コント教室』というタイトルの本を別役が2003年に書いたのはとても象徴的だと思う。
なぜなら別役実の戯曲は最初、「不条理劇」として出発したはずだからだ。「別役」と「不条理」はながらく「等号」の関係だった。しかしその別役が「コント」と言い出し、舞台を「遊ぶ」と唱導するようになったのは、「不条理」というキーワードが「笑い」の軸へとずれる必要があった。
その転機は1997年に『青山演劇フェスティバル』で別役実の芝居が若手演出家の手にかかったことに始まるのではなかろうか。そのとき「不条理」でなく「喜劇」をコンセプトに連続上演されたことは、はかりしれなく大きかったはずだ。平田オリザやケラリーノたちが別役を「不条理」から脱色させ、「笑い」へと塗り替えた。このパラダイム・チェンジを受けて、別役実は2002~2003年にかけて自らの戯曲を「コント」として「遊ぶ」ことをあらためて表明したという経緯・転機は無視できない。
世代のくだる若手演出家たちによって、別役は不条理劇作家という「重心の重い」作り手から、喜劇/コントの作家として軽やかに変貌し得たのだった。
だから2022年秋、長野県松本市での演劇祭の一環として別役実の『受付』という芝居が軽演劇の仕立てで軽薄に上演されるにいたったのも、1997~2003の転機を踏まえなければあり得ない芝居だった。
しかし1997年の若手演出家たちが意欲的に塗り替えた「不条理⇒コント」のベクトル変更は、当時かなり挑戦的な読み替えであったはずだ。
だが「別役=笑い」のパラダイム・チェンジが果たした「重い」貢献を分かっていないのだろう2022年秋・松本の別役芝居は、ただ形骸化した軽演劇になっていて、ただ野卑な面構えで・観客にやに下がった「退廃演劇」(アルトー)になっていたのだった。自分の発する笑いが退廃したそれであることに気づいていた観客はどれだけいたのだろうか。
「笑いには格調の高いものと、そうでないものがある」と別役実は『コント教室』で47頁に書きつけている。2022年松本の別役芝居で沸き起こる笑いを作者本人はどう聞いたであろうか。
「2人の設定が、芝居の基礎」という言葉は44頁に見える。だから『受付』という芝居は、本当は別役芝居の「真骨頂」を確認できる恰好のサンプルになるはずだった。
「始まりはスタティックに、パチンと決まるのがよい」は『舞台で遊ぶ』の171ページにある言葉だ。この言葉は「上手・下手」の「始まり方」とからんで説かれる教えで、少なくとも女装した大男が客席に大きな尻を突き出すといった「大向うを張った」始まりとはおよそ縁のないものだった。
受付女性を大柄の男性俳優にふったのも、いろんな意味で納得のできない仕掛けだった。女を大男が演じるというギャップに安易な笑いを誘う、低俗な演出にしか思えなかった。
芝居『受付』における受付の女性は、単に受付の仕事をしているのがたまたま女性だったという安直な設定ではなかったはずだ。
というのもこの『受付』という芝居は、二人芝居でありながら複雑な仕掛けが施され、そこには受付役に女優を配さなければならない理由がある。舞台上では受付の女性と診療を希望する男性とのふたりのやりとりが展開するのだが、芝居の進展に従って受付女性があちこちに電話をかけることによって、このクリニックが入居しているビルの各階にはクリニックと同じような受付が設けられていて、同じように受付の女性がそれぞれの階に陣取っていることが、クリニックの女性が電話を重ねていくことで「舞台からは見えない構造」としてその「受付女性たちのネットワーク」が「可視化」されるという形をとっている。
受付女性が受話器をとって電話を重ねることで、このビルは各階が同一構造になっていて、各階には同じように受付女性が配置されていて、それぞれに怪しい業務に携わっているという「舞台装置」が観客の脳裏で「幻視」されるのだ。
各階の「受付の女性」は一様に、とうのたった「オールドミス」たちであり、結婚するにはふさわしくない年齢に女性になってしまっていて(これは半世紀前に書かれた戯曲なので女性の結婚適齢期はははるかに狭かった)、結婚するには難があるのはほかにも容色の問題や身体的に障害があることが判明していき、結果観客がいま舞台上で目にしているクリニックの女性も「オールドミス」であり、外見的には明らかではないが結婚するには難のある「身体的な欠陥」があるのだなと、観客たちは「想像力を逞しくして」その受付女性役の女優を見ることが求められてくる。
芝居の冒頭のかけ合い(のすれ違い)からして、観客はこの受付女性がいささか常軌を失した性格の女性であり、結婚を願いながら結婚のできない「障害」がある女性であることを観客が「幻視」するようになる面白さはだから、どうしたって女性に演じてほしいのだ。しかしこの公演では男女(おとこおんな)を配したことによって、常軌を失した性格や問題のある外観という設定も、台無しになっている。観客が舞台の上で展開する「視覚的な・聴覚的な」情報を感得しながら、舞台上には見えない「設定」を「幻視」するはずの余地が、男女(おとこおんな)を配置することによって、ただ低俗にわかりやすい「お笑い」に解消されてしまっている。だから冒頭で繊細に展開してほしかった「筆立てへの偏執的こだわり」を通じてまず意識されるべき「上手・下手(かみて・しもて)」のプロセニアム構造(芝居の額縁)も、おとこ女という外見的な異常さのために台無しになっている。冒頭の「筆立て」のやりとりは、別役実が願ってやまなかった「ポーカーフェイスな笑い」をまず「準備」する装置だったはずなのだ。
★3~不条理とは何か
別役実は『コント教室』で、不条理劇とは「ナンセンスの展開」では「ない」と言い切っている(191頁)。
そうではなく、不条理劇とは「感覚的にはリアリズム」でありながら「劇構造としてはナンセンス」である二重構造を持つと丁寧に腑分けする。
これをわたしなりに解釈すると、「感覚的=日常的に使われるやりとり」を流用することで「日常的な風景から出発して、劇の展開を経て、不可解な光景(=ナンセンスな構造)へと連れていく」そういう仕掛けを言っているのだと解釈している。
「受付の女性」という「日常的な風景/日常的に配された仕事役割」から出発しながら、どこまで「非日常的な風景」へと持っていけるか狙ったのが『受付』という芝居だったのだろう。
別役の発想の出発点は「受付」という「仕事・労働」自体への着目だったはずだ。劇の展開から推測するに、別役が「受付という仕事・労働」に不思議を感じたのは、「受付とは、来訪客があったときだけ仕事を求められるが、来客がないときは何をしている仕事なのだろうか」という素朴な疑問だろう。また「受付をしている者はなぜ女性ばかりなのだろう」という疑問であったはずだ。
その結果別役が発想をたくましくして至った結論が、「暇にまかせて筆立ての置き方に延々と異常にこだわるようなパーソナリティの形成」であり「結婚するには難のあるオールドミスの誕生」であり、「暇な時間は、善意でありながら過剰な犠牲を強いるボランティア活動への献身」をし、「各階の同じ受付女性同士がネットワークを形成し、各階の来客を互いのボランティア活動に引き渡す役割を引き受け合う陰謀論的な設定」へと引き伸ばされていくのだ。
別役のこのナンセンスな発想には、根底に「受付という仕事は、来客がないと『無為』な労働であり、その『無為』を解消するため、『不必要に・有益なことをしようとしてしまう』」という着眼点があるだろう。
受付という仕事への別役の理解に妥当性があるかどうかはともかく、別役はここで『無為をどう解消するか』を解こうとした点で、別役なりに「無為への省察」を働かせて書き上げた『ゴドーを待ちながら』へのアンサーソングでもあったと見ていいかもしれない。
不条理演劇の嚆矢・ベケットの『ゴドーを待ちながら』はふたりの男が道端で、いつまでたってもやって来ない友人ゴドーを待って、ただ「無為」をかこち、なんら劇的緊迫性のないやりとりを重ねて終わってしまうという、反=演劇(アンチ・テアトル)の試みだった。
別役も受付という労働に『ゴドー』と同じ「無為」を見て、別役なりの回答を出した、というのが『受付』という芝居のひとつの解ではないか。
『ゴドー』を日本という土壌で「受け止め」て別役実の『受付』という芝居があったのではないか、というのは、わたしがいま勝手に思いついた「仮説」に過ぎない。
ゴドーと別役というキーワードがいま暫定的にわたしの脳裏で結びつけられたとき、さらに無茶な仮説の展開を許されるなら、もうひとりの「登場人物」として呼び出されるのが、先日早逝した劇作家・演出家の宮沢章夫の存在だ。
★4~宮沢章夫、もうひとつの不条理
わたしは決して宮沢芝居のよい観客ではなかった。どこか真意がつかめず、煙に巻かれているようで、かと言って決定的に離反するのでなく、つかず離れずな程度に宮沢章夫の芝居を観続けていた。
宮沢章夫もまた1997年青山演劇フェスティバルの特集「別役実の世界」で一公演をうった演出家のひとりである。いまネット上の情報を信頼するかぎりでは宮沢はそのとき『会議』という別役戯曲を演出しているが、わたしはその芝居を観ていないし、『会議』の戯曲も読んでいない。
それでも別役と同じく宮沢は、「不条理」にとりつかれていたと思う。実際2017年に宮沢は『ゴドーを待ちながら』のリーディング公演を演出した。わたしは実際にその公演にかけつけた。いまにして振り返れば宮沢の「晩年」の活動になってしまったその公演だが、わたしがどうしてもこの公演を観に行こうと思ったのは、不条理劇の古典中の古典『ゴドー』を宮沢ならどう演出するのかを、どうしても確かめたかったからだ。
宮沢章夫は公式的には「静かな演劇」の世代に数え入れられる存在であり、とぼけたエッセイを書き続けることで生活の資を稼いで演劇を続けていたひとだ。わたしは氏の芝居を観たあとに必ず覚える「後味の悪さ」と、氏のエッセイのいささかわざとらしい笑いとの間にある「懸隔・距離」をながらく「埋めてみたい」と思っていた。
しかし宮沢演出の『ゴドー』もやはり不全感に包まれた出来の芝居だった。詰めかけていた観客はくすぐりらしきところで断続的に笑いを弾けさせるのだが、その余韻はすぐに消えて、眼前に展開する芝居とどう折り合いをつけてよいのかわからないでいる、居心地の悪い雰囲気が終始ただよう公演だった。
『ゴドー』は宮沢の手にかかってすら「笑えない」。それがわたしの得た教訓だった。いやむしろ宮沢は「笑いに来ようとする」観客たちの思惑を「意図的にずらそう」としているように思えた。
翌年わたしは同じ早稲田どらま館で、宮沢自身の手で書かれた戯曲『14歳の国』の再演を観に行くことになる。今度は客席からの笑いに包まれた芝居だった。しかしわたしは一向に笑う気になれなかった。むしろ『ゴドー』と同じ居心地の悪さを覚えていた。
この『14歳の国』は酒鬼薔薇事件をきっかけにして書かれた、14歳の子供たち・つまり中学生の子女を教育・管理する教師たちが、教え子の体育の時間を利用して持ち物検査を秘密裏に行うという「居心地の悪い」設定の芝居だ。教師たちはとりとめもない話をしながら生徒たちの持ち物を検査をし続ける果てに、そのひとりがついに、意外なものを発見してこの芝居は終わる。
この芝居のラストはもっと劇的な・カタルシスを起こせるはずだった。しかし宮沢は意図的にそのラストの劇的な印象を「殺す」ように、教師役の俳優達に振る舞わせていた。
これを観たときわたしは、長年かけてぽつぽつと宮沢作品を追っかけてきた答えを得たように思いだった。
宮沢は明確な「オチ」、劇的な「カタルシス」を「ずらし・脱臼させる」ことを意図的にやってきた。その芝居の落ち着く先の「落ち着かなさ」を宮沢は選んでいた。それでも客席に笑いが起こるのは、とぼけた筆致の「エッセイスト・宮沢章夫」の姿を無理にでも「演出家・宮沢章夫」の像にあてはめようとした、安易で無理解な笑いだったと言っていいと思う。
そもそも「不条理」とは、演劇の歴史にあって従来のオーソドックスな演劇に対する「異議申し立て」であったはずだ。そして不条理を意識してしまった劇作家はもう素直に「劇的」に、芝居がやれなくなる。
ベケットは「その芝居に何も劇的なものがない=無為」を仕掛け、別役は「日常から出発しておきながら、非日常的なナンセンスへ観客を連れて行こう」とし、宮沢は「落としどころを意図的に中途半端にさせて、観客に不全感を抱かせた」のだった。
「反=演劇」であったはずの別役実の芝居が1997~2003の転機を経て「コント」の作家であるかのように自他ともに装いを変えたのは、別役にとって本当によかったのか?
それは「正当な」再評価・再演出だったのか?
別役はこの転機を経て不条理から降りてしまったのだろうか?
★5~退廃する不条理の、賞味期限
しかし不条理にも「鮮度」というものがあって、世代交代も起きるのであって、たとえば宮沢が「笑えない『ゴドー』」にこだわったのは、「なんでも笑えればよい」という世間の風潮にたいする、より現代的な装いで「アンチ」なふるまいをしたのではなかったろうか。
だから「不条理」のコンセプトを継承していない演劇者が2022年秋、松本で、別役の『受付』を笑止に「低俗なコント」に仕立て上げたのは、1997~2003に起きた「別役の(笑いという)転機」を安易に受け止めた者の仕草であり、そういうことが起こる「緊張感のなさ」そのものが「不条理作家として別役実」の「終わり・有効期限の到来」を告げていたのだった。
「退廃の本質」はいつも「三流」の手で実現する。
1997年以前「前衛」劇作家であったはずの別役は、1997以後「喜劇作家」として劇的に塗り替えられた。別役自身はそれを受けるように『舞台を遊ぶ』(2002)、『コント教室』(2003)を上梓して、むしろ「舞台の原理」を説きはじめ、「反動的・保守本流」の劇作家であるかのように変身してはいなかったか。
そうやって別役戯曲は「安全」なものになり、安易な舞台化を許し、2022年秋、松本でその戯曲はぐちゃぐちゃに形骸化した形で、安易な笑いを誘おうとするものとして顕現したのだった。それはだから、ひと言で言って「退廃」だった。
この松本での別役芝居にわたしは立ち会って、「ずい分、ひどい芝居に仕立てあげたものだな」と呆然とし、「『転機』が『必然』のように行き着いた、その退廃的な帰結」のさまに内心ショックを覚えて、それが不快感に変じるのにさほど時間はかからなかった。
それは十数分つきあうだけで充分だった。充分にその「真価」が見切れてしまうような「無残さ」をさらして芝居は進行していた。
ふっと「もう充分だ」と思って、わたしは席を立った。劇の序盤で席を立つのはいささか悪目立ちしてしまう行為だと自覚しつつ、この芝居への「異議」の表明としてゆっくり客席のあいだを縫って、劇場を立ち去った。
家に帰ってから、あらためて別役の『舞台を遊ぶ』を書庫から探し出し、ページをめくっていった。
内容をすっかり忘れていて、だからこの本の後半部がかなりページ数を割いて、いまさっき観てきたばかりの芝居『受付』の戯曲がそのまま再録されていることに驚きに撃たれながらそのページを繰っていった。
しかし『受付』はその全編を収録しているのではなかった。
別役本人が「ここら辺で、芝居の要点は伝わっただろう」というただし書きで記して、『受付』の再録は途中で終わっていた。そして打ち切られたその箇所がまさに、さきほどわたしが芝居『受付』を見限って席を立った瞬間と「まったく同じ箇所」だったのだ。
それは偶然ではないとわたしは思った。
別役は『コント教室』の84頁で読者に問いかけている。「まず、何が描かれているか?」と別役は問う。戯曲を読みにあたって、まずストーリーを追えているかを別役は重視する。そして同時にもうひとつ問うのが「この戯曲は、どこで切れますか?」という問いだ。
別役は「ストーリー」と同じくらい「切れるポイント=構造」に意識的であれと説く。
2022年秋、松本に低俗な構えで始まった芝居『受付』の「構造を見切って」まさに「席を立つにふさわしい・切れどころ」を本能的につかんで劇場を去ったわたしは、ぐずぐずと席に座ったまま、もう賞味期限が過ぎて・形骸化した芝居を目にして「不条理劇とはこういうものか!」と誤解して、だらしなく笑っていた観客よりは数等倍、芝居というものに本質的に迫っていた。
「その芝居を観ない」という選択は、ときに「その芝居を観続ける」こと以上に「演劇的な決断」なのだ。
わたしはそれを実践した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?