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もう、そういう関係じゃなくて~ジブリ私記(2)

 ジブリにはうらみつらみは沢山あるけれど、いいところもいっぱいあった。
 たとえば「平等」。ふつうの会社のように目上のひとを「部長」とか「課長」とか役職で呼ぶことがない。みんな「さん」づけ。ペーペーの新入社員でも監督のことを「宮崎監督」ではなく「宮崎さん」と呼んでいた。「鈴木プロデューサー」ではなくてただ「鈴木さん」。スタッフ同士も基本的に「さん」づけだった。私は新入社員だったから「石曽根クン」と呼ばれることが多かった。いや、宮崎さんは私を呼びつけるとき「石曽根!」だったな。入社当初宮崎さんは私のことを「逸材くん」と呼んでいたけれど、このあだ名についてはまたいずれちゃんと書いておきたい話なので、また別のときに。

 上司を「さん」づけで呼ぶのはフェア(公平)な感じがして、私は気持ちがよかった。「さん付け」の癖はジブリを辞めてもしらばく抜けなくて、ジブリを辞めて入り直した大学院で、教師たちを「さん付け」で呼んでいたら、あるとき酒席で先輩から「”さん”じゃないだろ、”先生”だろ!」とこっぴどく叱られた。大学院は大学院で、ジブリとは違う”自由”があったけれど、その自由さにもそれぞれにルールが違うのだった。

 私はなれなれしく、宮崎「さん」と呼んでいたわけじゃない。ちゃんと敬意をはらって「さん付け」していた。でもファンからしたら、対等な感じで宮崎さんを「さん付け」で呼ぶのはうとましい境遇なのかもしれない。
 逆にファンからしたら、宮崎駿ってどこか抽象的な存在だから、「さん付け」する方が逆に違和感があるかもしれない。私は私で、宮崎駿とは近くで接した生身の人間なので、あらたまった形でなければ「呼びすて」にするのは違和感がある。

 宮崎さんと「同僚」として結びついた関係は、しかし、「けじめ」をつけるべき側面もあった。
 ちょうど私たちが新入社員としてジブリに入社して間もなく、ナウシカのイメージボードやコミックの表紙用に宮崎さんが描いた水彩画が、画集として一冊にまとめられて出版されたばかりのときだった。宮崎さんの監督席の脇に立つ例の金属製のラック(原画上がりの監督・作監チェックのためのラックですね)の下の段に、その画集が何冊も(著者献呈とでもいうのか)積んであって、宮崎さんはしばらくその画集をそのまま放っておいたのだけれど、なんのはずみか新入社員がかたまって座っているブースへ向かって、
「今なら半額にしてやるから、お前ら、買え」
と声をかけた。
 半額じゃなかったかもしれない。切りがよく千円とかだったのかもしれない。私と米林くんは(あの米林くんだ。私と同期の新入社員だったのだ)が反応して、宮崎さんの席まで行って購入した。
 米林くんは席に戻ってしばらくもじもじしていて、それから画集を手にして私の席へ寄ってきて、こっそり声をかけてきた。
「サインって、もらえないかなあ?」
 要するに、ひとりではサインをもらう勇気がないので、私に加勢してもらえないか、というのだ。私は、確かにせっかくならサインもらっておいた方が価値があがるな、と実利的に思ったので、
「じゃあ、一緒に頼みに行こうか」
と席を立って宮崎さんの方へ近づこうとした瞬間だった。
「お前ら!俺とお前らは、もう、そういう関係じゃないんだ!わきまえろ!」
と怒鳴りつけられた。宮崎さんは仕事をしながら、私たちがこそこそとやり取りしているのを聞きつけていたのだ。
 怒鳴りつけられた私たちは、体勢を宮崎さんの方へ駆け寄ろうとしたまま身動きできなくなり、それからぎこちなくしょんぼりして自分たちの席に戻ったのだ。
 そのとき私は決して残念という思いではなかった。サインをもらおうという思惑を本人からばっさり切られて居心地の悪さはあったけれど、「そうか、ぼくたちはもう『そういう関係』じゃないんだな」と晴れがましさを覚えていた。「そういう関係」じゃない、つまりもうサインをもらう関係じゃない。ファンと憧れの存在、という関係じゃないのだ。基本的に「さん付け」する、「対等・フェア」に仕事をし合う関係が始まっていたのだ。サインを交換し合うよりもっと「立ち入った」関係、つまりプロフェッショナルな関係なのだった。
 それはばつの悪い事件だったけれど、誇らかな思いが自分の内から呼び起こされた、そんな事件でもあったのだ。
 

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