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【耳をすませば~アニメてにをは・放映実況】

★前置き
やっと3週連続の夏の金曜ロードショー・ジブリ祭りが終わりましたね。

自分としてはここまで熱心にやるとは想像もしていませんでしたが、不思議とやり抜けましたね。
意外に思われるかもしれませんが、ぼくはアニメ好きではないんです。

でもここまでやれたというのは、ひとつにSNSでジブリ好きなひとたちと出会えて、その後押しがあったことは大きいです
もうひとつは、こういう営みが好きか嫌いかは置いておいて、『生理的に合っている』らしいとは何となく思いました。

SNSのジブリファンの皆さんとのつながりがあってこそ、DVDも持っている作品をわざわざ放映に立ち会えたのですが、その結果として、パソコンで視聴することに馴れていた習慣から一度離れてテレビの大きいモニタで見ることも大事だなと思いました。細かいところがさらに細かく見れました。

さて前置きが長くなりました。
昨夜の『耳をすませば』実況中につぶやいたことを画像とともに振り返ってみます。


★01~セル化率の低さ
【前夜祭】でも指摘しましたが、画面の中の事物は背景画で処理されている率が高いですね。

宮崎駿さん本人の演出でこの『耳をすませば』が作られていたらもう少し、例えばこのキッチンや洗面所のシーンでは、各所で事物をセル化することで、空間に活気が生まれたと思います。


★02~ここの、ちゃちゃっとご飯を食べるシーン。

事前にパソコンでDVDで観ているときは2コマの動きが混ざっている?と思って【前夜祭】でも書きましたが、テレビの大きな画面で観てみると、ただの3コマ打ち(=リミテッド)でした。



★03~電車のシーン。これも見間違い。

【前夜祭】では奥の車両は背景画で描かれていると指摘しましたが、テレビのモニターで見ると、セル画で処理されていました!
すみません。
所持しているパソコンのモニターサイズも決して小さくはないんですが、今度からはテレビで視聴する癖もつけないといけないですね。


★04~木立ちの下の木陰

『耳をすませば』を今回観直して一番印象的だったのは、『木陰の下に人物を置く』ということを多用していることです。

人物が木陰の下を動くことで、顔やからだにグラデーションが生まれ、影に動きがつくのですが、これは地味に作画が大変だったはず。

でもここに妥協しない、こだわりを感じましたね。


★05~眼鏡装着率が高い

現代もので、学校ものだからでしょうか、ジブリ作品でも珍しいくらい、眼鏡を装着している人物が多いですね。

眼鏡装着人物のうち、お父さんが一番出番が多いのですが、さりげないハイライト(輝いて光って見える箇所)処理が施されています。


★06~交通ルール無視横断
雫そのうち、事故りますよね。

交通法規の無視を奨励しているはずもないけれど、雫のこの行動も本編で徹底されているとなると、何かしら意図があるように思えてしまいます。


★07~バロンの眼の輝き=透過光
天沢くんが雫に、バロンの眼が光る角度で見せてあげます。
絶妙な角度でバロンの眼が光り輝きます。

こうやって光り輝く処理は業界用語で「透過光」といいます。
撮影における「二重に露光する=フィルムの同じ箇所を微細な違いを加えて二回撮影することで得られる効果」の一種です。



08~人形が生き生きと=これも「二重露光」
「二重露光」の話になったので、ついでに。
バロンが彫像から(雫の空想のなかで)生きた存在に変わるこのシーンも、「二重露光」ですね。

背景画で描かれたバロンの像と、セル画で描かれたバロンの姿を「二重写し」するのですが、「フィルムにあてる光の量を、二回それぞれ反比例的に変化させる」ことで、じわーっと彫像⇒人物に変化するのです。



★09~二重露光、もうひとつ:「ダブラし」
「二重露光」の仕組みもうひとつ。

猫・ムーンが電車のなかから窓越しに外を見ていて、その外の風景が窓に半透明に映ります。
これも「二重露光」です。「フィルムの同じ個所を、2回、光の量を変化させつつ、組み合わせる撮影素材を変える」ことで出来る仕組みです。

でもこういう「半透明」にする場合は「ダブラシ」という名称で処理の伝達をするのが現場の習慣です。

ちょっと抽象的な説明になってしまいましたね。

また後日、これら「透過光」「ダブラシ」の撮影バリエーションを、「二重露光」という「基軸となる技術」の角度から「統一的に」ご説明したいともくろんでいます。



★10~脱ぐ仕草
それから、こういう角度からこの作品を見ることを嫌がるひともいるかも知れませんが。
この作品は「ひとが服を脱ぐ動作」が沢山でてきますね。

特にその最初が雫のお姉さんの脱衣シーンなだけに、雫がセーラー服を脱ぐ箇所でもドキッとしてしまいます。

明確な意図はなかったと思うのですが、やはり「服を脱ぐ=セクシャルなふくみ」はあったと思うのです。
それがラストの天沢くんが自分のジャケットを脱ぎ、雫に着せる場面ですね。

明確なセクシャルではなくても、情愛が通い合い場面なだけに服を脱ぎ思いびとに着せる動作は雰囲気として親密さを演出できていると思います。


★11~「もっさり」してる?
この作品の(見た目的な・視覚的な)特徴を、今回放映で観ていて思ったのは、「絵が”もっさり”してるなあ」ということでした。

はっきり言ってしまえば、絵が洗練されていない。
着ぶくれた感があるんです。
決定的な線やシルエットで決めていない。
宮崎駿演出作にくらべ、「野暮ったい」のです。

なんでこうなったんだろう?またぼちぼち資料を集めて調べてみようかな。
と思ってエンドクレジットを見ていたら、作画監督が高坂希太郎さんでした。
『もののけ姫』の制作が終わり、一旦スタジオを離れることにした高坂さんは新米の演出助手に過ぎないぼくに、
「またいつか、一緒に仕事しましょう」
と言ってくれたのをよく覚えています。

一緒に仕事をすることはもうないだろうけど、20数年前の「口約束」が効いていたら、『耳をすませば』の制作裏話を聞かせてもらえる機会があるかも知れませんね。


★12~表情の微細な変化
でも『耳をすませば』の「もっさり感」を言いつつ、それでは終わらない作品だと思うのです。
この作品は「表情のつけ方」にこだわっている特色もあります。

天沢くんのこの顔の、いや~な感じ。
それを受けて雫のこの顔まね。

で、ここからなんですよね。魅せてくれるところとして。
天沢くんへの怒りが、一冊の本を前にしてずずっと感情が別のベクトルへ引っ張られる。

この「眉毛」なんですね。
この眉毛の傾き加減ひとつで雫の感情のドラマを別の方向へ鮮やかに転換する。

もう天沢くんとのことなんか忘れて本に没入している雫。
それは同時に、天沢くんのことを忘れて『雫の感情のドラマ』に沿って観ているわれわれの姿でもある。

この、表情の微細な変化、特に眉のあげさげ加減で感情のドラマを導く。

このとき思い出されるのは、近藤喜文さんがテレビアニメ『赤毛のアン』(高畑勲演出)の作画監督をやっていたという経歴ですよね。
あの作品も『日常もの』で、しかも一年間という長尺のなか、『冒険~スペクタクル』ではなくて『日常~感情の微細なドラマ』に重点を置いたアニメだったんですよね。

若くして亡くなった近藤喜文さんですが、『赤毛のアン』~『耳をすませば』のラインで作家としてのプロフィールを描き出せるのかな?と思いました。

以上です。
長々とつきあわせてしまいました。
おつきあい、ありがとうございました。

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