gと烙印:第34話~高畑さん、宮崎さん思い出ひとつ

1.高畑さんの「知」の限界
 高畑勲さんの死から一ヶ月。様々な媒体で追悼記事が出た。
(でも本格的な論考が出るのはまだ先だろう。)
 そういう追悼記事を見ながら印象に残ったのは「知性と教養の人」というフレーズだった。
 高畑さんは確かに周りのアニメ人に比べれば圧倒的に教養があった。ただ、違った畑に入ったからその教養が目立っただけで、もしアカデミズムにいたら、ごくごく平凡なレベルだったろうと思う。
 そんな高畑さんの教養は、当たり前だけど、無尽蔵なものではなかった。
 それを象徴する思い出がある。
 僕は大学時代からクラシックに目覚めたのだけど、その目覚めは現代音楽のアルバン・ベルグによる弦楽四重奏曲だったから、あまり正統的なクラシック聴きではなかった。ここから始まった僕のクラシック聴きの基点はカルテットと現代音楽となり、一方はベートーヴェンのカルテットにさかのぼり、一方の現代音楽はさまざまな現代音楽を分からないながらピッタリくるものがないかと聴き漁った。
 時間をちょっとすっとばして、ちょうど「ホーホケキョとなりの山田くん」の準備期間中の頃だった。僕は近くの図書館からメシアンの「鳥のカタログ」のCDを借りてきて会社に持ってきていた。
 それを見た隣の席のスタッフが、あざ笑うように「君、そんなもの聴くの」とぶしつけな感じで言った。そこでそのスタッフが話すには、ちょうど昨夜スタジオで、偶然このメシアンのアルバムが話題になって、高畑さんが酷評したのだと教えてくれた。にやにやしたスタッフは早速高畑さんの机へ駆けつけ、僕がそのアルバムを聴いていることを伝えた。
 高畑さんは、笑いながら
「そんなもの聴いて、どうなるんですかね」
と言った。取り巻きのスタッフが一緒にニヤニヤ笑っていた。
 僕はその失礼な発言に腹が立つと同時に、「ああ、高畑さんにも理解できない領域があるんだな」と驚いていた。そして自分に理解できないものに対し畏敬の念を抱くのではなく、なかばあざ笑って済ませていた高畑さんの姿がちょっと衝撃的だった。
 二十代半ばの若者が抱く好奇心の発露と、それをあざ笑う六十代に入ったベテランの知性の放棄。
 「教養の人」と呼ばれた高畑勲さんの「限界」を知ったエピソードである。
 実際、高畑さんにも知性と教養に偏りはあり、僕が熱心に読んでいた蓮實重彦の映画批評論を相当毛嫌いしていた。生理的な嫌悪感を抱いていたらしい。準備している映画の参考になればと、小津安二郎の「お早よう」のビデオをスタッフで見ていて、僕が土手の上と下とで別々に人物が動いている様子が面白いと指摘したら、「そういう観点は、私には意味があるとは思いませんね」と切り捨てるように高畑さんに言われた。しかしいま書きながら気づいたが、上と下とで別々にモノが動いているという観点は、蓮實的というより僕のアニメ論の萌芽だったと、いまなら分かる。高畑さんに生前のうちにアニメ論を読んでもらっても、同意を得ることができたかどうか、微妙だなと今頃気づいている。
 追悼期間の自粛ブームに逆らって、「知性と教養の人」高畑さんの、その知の限界をいまだからこそ、ひとつ明らかにしたかった次第です。

2.宮崎さんの創意の発露
 僕は先日大胆にも小説家宣言をした。みなさん内心失笑モノだったりしたのではなかろうか。
 僕の、実行する前に大言壮語する癖は、大いに宮崎駿さんの影響がある。宮崎さんも周りに構想をぶちまけて、自ら招いたプレッシャーで自分を追い込み、アイデアを練り込んでいくタイプだった。
 「もののけ姫」の製作のとき、演出助手だった僕は突然宮崎さんから呼ばれた。
「お前、これ、どう思う?」
 渡された原画用紙には、特大のクローバーが密生するジャングルがひろがり、その巨大なひとつの葉っぱに毛虫がチョコンと乗っかっている。
 この毛虫目線で、アニメを作ったらどうだろう、というのである。
 正直、圧倒された。コンセプトがダイレクトに伝わってくるスケッチだった。すごいな、と思った。
 だが生意気ざかりだった僕は、
「で、この虫はしゃべるんですか?」
「え? しゃべるよ」と宮崎さん。
「それじゃ、台無しですね」と言いながら、宮崎さんにスケッチを返した。宮崎さんは明らかに怒りをおさえつつ、一本取られたか、みたいな苦しい笑顔を浮かべていた。
 心苦しく、冷や汗の出る思い出である。しかしあの当時僕は、イエスマンでしかない他のスタッフの中にいて、言うべきときは敢然とノーを言うため「だけ」に雇われていた、と思っていたので、そうしたのだ。実際僕の注文も苦し紛れの異議ではなく、虫はしゃべらない方が作品として見応えのあるものになると本心で思って言ったのである。
 お気づきの方はもういるだろうか。20年前にラフスケッチを描いて始まったこのアイデアは、今年「毛虫のボロ」という短編アニメーションとして三鷹の森ジブリ美術館で上映されている。
 あの宮崎さんでさえ構想20年モノがあるのだ。自慢げに・照れ臭そうに僕にラフスケッチを渡したあの独特の表情が忘れられない。
 20年前、すでにして巨匠だったあの人も、アイデアの着火点を周りに披露するときは、すごい照れ臭いのだ。その照れ臭さを引き受けてモノを作る姿勢は、はずかしながら僕にも感染している。
 ところでいま上映されている毛虫のボロは、さてしゃべっているのかどうか。
 美術館はいま混んでるでしょうから、確認はだいぶ先になりそう。観た方は教えてください。

3.回想記への目論見
 フェイスブックでジブリのことを書き始めて、かれこれ4年にはなるだろうか。
 最初は警戒しながら、いくつもの段取りを慎重に踏んで、話をしてきたものだ。
 そして気づくと、いきいきとジブリのことを書くようになっている。
 それもこれも、自分にとってジブリの経験は得がたいものだったからだろう。
 ただ、あの当時の苦渋を忘れつつある。それは若気の至りだったり、社会経験の少なさが、そういう苦渋を覚えさせた節がある。その後のもっと嫌な経験を様々に経て、記憶が相対化されたというのもある。
 しかしジブリの経験について本格的に公に問おうとするならば、いま一度、あの当時の苦渋を復活させて書きたい、という思いはある。
 ジブリの経験を小説化する「烙印」計画。回想記ならはるかに楽に書けそうだが、あえて小説という鋳型にはめ、物語をつくりだす作業を自らに課そうと思う。道ははるか。宮崎駿に見出され、「逸材」と呼ばれた自分だ。氏の評価が間違っていなかったことを証明したい。それは自分が持してきた矜持を証明することでもある。20年とりついている「烙印」のゆえんであるのでした。



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