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ジブリの烙印(東小金井村塾編その7~十五秒の夏休み)

★1


ぼくは塾が始まる前に東小金井駅の裏にあるモスバーガーへ足を運び、「勉強会」に出席する常連になっていた。
片岡さんの勉強会へのリクルート活動は続き、それからも二、三人、新たに参加する者もいた。

アニメ演出家志望者の集まりだけあって、話題はアニメのことばかりだった。
アニメにさほど詳しくないぼくは話についていけないことがしばしばあった。
しかしこれも勉強のうちだと思い、メンバーたちのアニメ談義に耳を傾けた。

あるとき『機動戦士ガンダム』と『アルプスの少女ハイジ』は、アニメとしてどちらが優れているか、メンバーの間でちょっと論争になった。
ぼくは幼い頃観て以来で、どちらのアニメも記憶がおぼろげだった。
言い争うメンバーたちも大同小異で、話が抽象的になりがちだった。
『ガンダム』も『ハイジ』も当時(95年当時)は簡単にビデオなどで視聴できる環境ではなかった。
それでメンバーはどうしても不確かな記憶で語るしかなかった。
そこへ広井さんが言った。

「うちに来なよ。ビデオそろっているから」

後日東小金井駅からいくつか駅がはなれたところにある広井さんのアパートに行くと、リビングには山のようにダビングしたテープが積まれていた。
あらためて議論の的になっていたシーンが収録されたテープを再生して、集まった面々は議論を再開させた。

議論を遠巻きに聞いていたぼくには、『ガンダム』は静止した絵が多く退屈だったが、それに比べて『ハイジ』の方が躍動感に満ちていることを発見した。
ロボット同士の闘いより女の子の高原での日常の方が生き生きしているように見えたのは、ぼくには不思議だった。
しかしメンバーたちの議論は明快に片付きそうではないようだった。
ぼくが議論を遠巻きに聞いていて意外だったのは、『ガンダム』に皆が熱中していることだった。
確かにロボット同士が戦っている場面は派手だったがぼくには空疎に見えて、それ以外のシーンの大部分を占める、人物がただ立っていて口だけが動いているドラマの箇所は絵的に退屈だった。
ぼくは『ハイジ』の話にならないかと待つように話を聞き続けた。
塾生たちは言葉少なに『ハイジ』を『リアル』だと言い、日常描写のディティールがすごい、と言う程度で、ぼくがこの作品を観ていたときの『画面の躍動感』の秘密を解き明かしてくれる発言はなかった。
ぼくは不思議だった。
山の上の少女の生活をこまごまと描いているだけのアニメがなぜ、ロボットの戦いや戦場の人間ドラマよりも観ていて飽きないのだろうか。

ひとつ言えることは、塾生たちは画面を注視せずもっぱら、語られたセリフから想像される世界観に魅了されているようだ、ということだった。
ぼくがその当時そう思ってしまうのは、画面に展開されたものだけを見るよう提唱する表層批評家・蓮實重彦の影響を、ぼくが受けているからだと気づいていた。
しかし、実写映画ならば画面に映っているものを様々に指摘できる訓練をしていたぼくも、アニメの画面にそのまま応用できるようではなかった。
そう言えば、蓮實の批評文もアニメについて語ったものがなかったとあらためて気づいた。
アニメと実写映画では画面を支配する原理が違うのだろうか。
ぼくは仲間たちに助けを求めるべく「皆さん、画面に見えているものを語りましょうよ」と問いかけたかったが、表層批評のことすら知らない塾生にそれを言ってみても仕方ないとも思った。
塾生たちの熱弁に参加することもできず、自分の中に渦巻く不全感も解消できず、ただ疎外感ばかりを覚えるのだった。

★2


夏になって、塾は一か月間の休みをとることになった。
四月に始まり十二月で終わる予定のこの塾も折り返し地点にさしかかるところだった。

夏休みを迎えるにあたり高畑勲さんは手間のかかる宿題を出した。
十五秒間のアニメを作ることがそれだった。
塾生全員に数百枚の作画用紙とタップが配られた。作画用紙には上部中央に丸い穴が空いていてその左右にも横長の穴が空いている。
その三箇所の穴にはめる突起がついているのがタップという平べったい棒で、このタップを机に置き、突起にはめる形で作画用紙を何枚も固定し、紙同士がズレないようにして、動きのある絵をつくっていくのだ。
作画用紙をいためないように大きめの封筒も配られ、その封筒にはスタジオジブリと印字してあり、自分もジブリの一員になったような興奮が塾生一同を包んだ。

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